2008年10月 エヴェレスト街道トレッキング
  
      2008年 10月14日〜11月2日(20日間)
      
      メンバー  斉藤(洋)(40年卒)、斉藤(雄)(41年卒)OB

     以下は斉藤(雄)OBの紀行文です。

 

 60歳で会社を定年退職した時、若い頃親しんだ山登りを再開し、70歳になる前に、エベレストのベースキャンプまで行くことを目標としてみました。中年の頃にはじめたバイク乗りも再開し、日本一周を目標としました。本年はバイクの日本一周の完成させる年と考えていましたが、1年先輩の斎藤(洋)さんから、エベレスト街道に行かないかと誘われて、今年の目標はバイクの日本一周から、エベレスト街道トレッキングに変更しました。

 エベレスト街道のトレッキングは個人で行く場合と、ツアーに参加する方法がありますが、私達は2名のグループなので、ツアーに参加する方法をとりました。エベレスト街道トレッキングは、アルパインツアー社とヒマラヤ観光開発社(以後ヒマ観)が良い企画を提供してくれているので、両社の説明会に参加してみました。両社に優劣無く、最後の決め手は、ヒマ観がホテル・エベレスト・ビューを持っていることでした。

 24年前に、ホンダは2輪の合弁会社をインドに作りましたが、私は初代の駐在で、ネパールにまで販売網作りに出かけました。この時、カトマンズで、ホテル・エベレスト・ビューを作った宮原さんとお会いしており、何かこのホテルには愛着がありました。現在のヒマ観の社長が宮原さんです。またトレッキングの検討中に、ヒマ観の日本代表である井本さんと知り合いになりました。話しているうちに、井本さんがエベレストに登った時に、山の会の後輩で、Y新聞の迫田や奥野がサポートしたとのことで、何か因縁を感じたのも、ヒマ観を選ぶ理由となりました。

 

ポストモンスーン期に、エベレストに登る人はおらず、誰もBCには行かないとのことで、BCは諦め、ヒマ観の「カラパタール登頂20日間」に参加申し込みました。7月の初めでした。高度順応のために8月初と9月末に富士山に登り、それぞれ3000米を超える高度で宿泊し、三浦ベースキャンプには3度出かけて、5000米での高度順応を経験し、一応の準備を終えて、エベレスト街道トレッキング(地図1・2)に出かけました。

懸念事項は、夏風邪が完全には治っていないことでした。


10月14日(火)

成田、午前9時、ツアー参加者10名とヒマ観のガイドHさんが集合しました。大阪から参加の男性2名を含め、男性8名、女性4名、ガイド1名の陣容です。最高年齢が男女共に72歳、平均年齢は66歳、既に登山の格好をしている人や、普通の旅行風の人もいて、個性様々です。タイ航空で予定通りにバンコックに向かいました。

バンコックでは、ツイン・タワー・ホテルに宿泊しました。名前負けの下町の中級のホテルでしたが、宿泊だけなので問題ありませんでした。


10月15日(火)

予定通りバンコックからカトマンズへ向かいました。カトマンズに近づくと右手にヒマラヤが見えてきます。遥かかなたにエベレストが見えてきました。雲の中にかすかに見えるエベレストです(写真1)。


 カトマンズは24年前に比べるとだいぶ綺麗になりました。特に街中がバイクで一杯なのはうれしい事です。私が設定した販売店に電話してみましたが、祭日でもありうまく繋がりませんでした。

 24年前に宮原さんが奔走して出来たホテル・ヒマラヤに泊まりました。パタンにある高級ホテルです。風呂のお湯は少し黄色ですが透き通っています。かって黄色く濁っていたのに比べれば、全く問題ありません。このホテルのオーナーは現在シンガポール人のようです。

 このホテルでヒマ観の現地スタッフ、今回トレッキングのサーダーとアシスタントサーダーに会いました。サーダーはベンパさんで20代後半、アシスタントはミノダさんで20代前半、二人とも若くて快活でした。

 トレッキングの荷物を15キロぐらいに抑えて、ヒマ観が準備した青色のバックに移しました。ポーターの背負う重量は30キロ強のようで、多分一人で2個背負うのでしょう。後で分かったことですが、荷物はゾッキョ(小型の労働牛)が背負いました。 


10月16日(水)

写真1 写真2

午前4時に起きて、国内線の空港に向かいました。飛行機は予約されているので、争ってチェックインすることも無いのでしょうが、空港ロビーは狭くて、戦場のようでした。国内線の20人乗れるプロペラ機は、定時の6時10分に出発し、左に快晴のヒマラヤ、ランタンリルン方面を見ながら(写真1)、6時50分にルクラ(2827米)に到着しました。空港でまず見えたのが岩峰ヌプラでした(5885米・写真2)。

ルクラの町中(写真3)にあるロッジで休息し、ここで初めてHさんが持参したパルスオキシメターで酸素飽和度SPO2と脈拍を測りました。私は酸素の方はOKでしたが、脈拍が95あって、通常の75に対して、ちょっと高いのが気になりました。歩く前から高山病も無いだろうとは思ったのですが、高山病対策のダイアモックスをHさんの勧めもあり半錠飲みました。

写真3

 ここルクラで、私たち12名をサポートするクルーが加わりました。後で説明を受けたのですが、既に触れたサーダー、アシスタントに加え、シェルパが2名、コック1名、キッチンスタッフ4名、個人用ポーターが2名、ゾッキョ御者2名、ゾッキョ6頭の大所帯でした。シェルパの一人、カジさんは穏健な40代半ばの人で、常に先頭を歩きました。コックとキッチンスタッフは私達に常に先行して、食料、なべ釜、食器類を運ぶポーター役と、昼食・夕食を作る料理人役を果たしてくれました。皆、勤勉な人達でした。


午前8時30分に、片道60キロ、往復120キロのトレッキングが始まりました。天気晴、ドゥ−ド・コシ川に沿い、パクディン(2652米)に向かいます。村落周辺での登りはありますが、ルクラからは約200米の下りです。チベット仏教のマニ車(写真4)、ストーバ(仏塔:写真5)を見ながら、またゾッキョに道を譲り(写真6)、タルチョで飾られた吊り橋を渡り(写真7)、背後に初めて出てきた白いヒマラヤ峰、クスム・カングル(6387米・写真8)を見て、前方に神の山クーンビラ(写真9)を見ながら進むと、午後12時45分にパクディン(写真10)に着きました。緑の畑がある山間の村落です。初日はここで宿泊です。

写真4 写真5
写真6 写真7
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ロッジは一部屋2人です。ベッドの上にヒマ観が準備したシェラフをおき、ここにもぐります。清潔な感じのシェラフですが、持参したインナーカバーが役立ちました。日本の山小屋と違い、個室になっているのは、西洋文化の影響でしょう。

 さてロッジのトイレですが、室内のトイレは水で流す仕組みで、意外と清潔です。但し屋外のトイレは、産物を有機肥料として使う堆肥小屋で、慣れない人には苦痛です。これはほぼ全行程で同じでした。

写真10

10月17日(金)

本日はナムチェ(3440米)まで行く前半の山場です。午前6時に起き、7時に食事をして、8時出発です。朝食はおかゆとパンでしたが、おかゆにふりかけ海苔やお茶漬けの素を加えると美味しく食べられました。

写真1 写真2
写真3 写真4

天気晴、つり橋を3ヶ所渡り、モンジョを経由して、元気を出して、もう一つのつり橋を渡ると、サガルマータ国立公園入り口の、ジョサレ(写真1)に着きました。ここで入山手続きをしました。つり橋は川面近くにありますので、まず下って、橋を渡ると、次は登りになります。これがきつくてだいぶバテました(写真2・3・4)。

 昼食後、ジョサレから高度差600米の急な坂道をヒイヒイ登ると、やっとナムチェが出てきました。ロッジに行くには、ナムチェの町中を行くのですが、急な石段なので、ここを抜けるのも一苦労でした。午後3時30分にロッジに着き、やっと休むことが出来ました。


10月18日(土)

本日は高度順応の為、ナムチェに滞在の日ですが、朝食前にエベレストを見ようと、ロッジを午前5時に出て、ネパール軍の堡塁のあるナムチェの丘まで出かけました。残念ながら曇天で、休息所でお茶を飲んで、ロッジまで帰りました。

写真1 写真2
写真3 写真4

 朝食後、9時にシャンポチェの丘(3800米)に向かいました(写真1・2・3)。左側の暖斜面をゆっくり2時間ほど登ると、エベレスト・ビュー・ポイントに出ました。引き続きの曇天で、アマ・ダムラム(6812米)は見えましたが(写真4)、エベレストは見えませんでした。

写真5 写真6

ただこのポイント周辺では、いたるところで、ヒマラヤリンドウが咲いており(写真5・6)、何か得をしたような感じになりました。日本では高山植物保護ということで、こんなに花の咲き乱れるところには、まず入れないでしょう。

写真7 写真8

 休息後、ナムチェに向かい、急坂を下りましたが(写真7・8・9)、本日は土曜日ということで、バザールがあり、食料・日用品を背負い、登ってくる何組かの家族に会いました。手には卵が一杯です。12時30分にロッジに着きました。

 

写真9

午後はフリーで、各人ナムチェを散策しましたが、バザールは午前中で終わっていました。荷物運びのヤクが待っていました(写真10)。ナムチェの中央通りは、登山具・土産品店がたくさんあります。有名ブランドのノースフェースなどあるので、本物かと確認したら、店主がすべて中国製のコピーだと堂々と言うので、正直さに圧倒されました。

 


10月19日(日)

写真1 写真2

午前8時、タンボチェ(3867米)を目指し、出発しました。天気は快晴で、1時間弱歩くと、エベレスト(8848米)・ローツェ(8516米)が初めて正面に出てきました(写真1・2)。景色の良い高台で、小休止を取り、斎藤(洋)さんと一緒に写真を撮りました(写真3)。長い稜線のヌプツェ(7855米)がエベレストの前側にありますので、エベレストはピーク周辺が見えるだけです。右側にあるローツェの方が南壁を押し出して、豪快です。

写真3
写真4 写真5

ここから谷底に降り、つり橋を渡るとブンキ・タンガです。子供達がいて、花が咲いています。(写真4・5)。昼食後、高度差600米の急坂を2時間かけて登り切ると、午後2時30分にタンポチェに出ました(写真6)。ここからエベレスト・ローツェがよく見えます。

写真6
写真7 写真8

到着後しばらくすると、ガスが出始めましたが、時間もあるので、タンポチェを散策しました(写真7)。大きなゴンバを中まで入って見学し(写真8)、その後尾根を少し歩いて、1982年の冬、日本人として初めて厳冬期のエベレスト登頂に成功し、帰路に遭難死された加藤保男の慰霊碑を訪ね、黙祷しました(写真9)。

写真9

夕方には、ガスの中にエベレスト・ローチェが顔を出しました(写真10)。

写真10

10月20日(月)

写真1 写真2

朝、起きると、快晴で、絶好のシャッターチャンスなので、エベレスト・ローツェの写真を撮りました(写真1・2)。

出発前同行者全員で写真を撮りました。早朝で、ちょっと暗い写真ですが、後列の真ん中に全然知らない外人が映っていました(写真3)。外人のユーモアでしょうが、何か不気味でもあります。

写真3
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写真8 写真9
写真10 写真11

午前8時にデンボチェ(4350米)目指して出発しました。最初は樹林帯で、雨季であれば石楠花が咲き誇るところです。これを下って、川の対岸に出て、パンボチェを越え、ショマレで昼食をとりました。この間スト−パを見たり(写真4)、ゾッキョやポーターの活躍する姿を見ました(写真5・6)。その後また川を渡って(写真7)、山腹道を2時間ほど登ると(写真8・9)、谷間の村落デポチェ(写真10・11)に出ました。

写真12 写真13
本日の行程は、最初エベレストが良く見えましたが、途中からローツェのみとなりました。アブダムラムが常に右手に見え、刻々と姿が変わっていきます。アブダムラムの左側の岩壁は、アイガー北壁のようです(写真12)。背後のナムチェの方向にはコンデ・リ(6187米)が見えました(写真13)。デポチェでは蒼く光る、ローツェが出迎えてくれました(写真14)。
写真14
 夜、漆黒の空の、手が届くところに、星座と天の川が光っていました。高度も4000米を越えると、夜中、数度、目が覚め、その度にトイレに行き、深呼吸して、血中酸素濃度を高めました。

10月21日(火)

朝、天気は晴れ、ローツェには雪煙ガ上がっていました(写真1)

写真1
写真2 写真3
写真4 写真5

本日は高度順応の為、ここに滞在しますが、左にある尾根を400米程登って、高度5000米を経験する日です。休日なのにかなりのアルバイトです。午前8時30分に歩き出し、しばらく急坂を登ると、明日行くロブチェの方向が見渡せる尾根に出ました(写真2)。目の前にタウツェ(6542米)があり(写真3)、その向こうにチョラツェ(6440米)とモレーン湖があります(写真4)。ロブチェ方向には、いくつか山並みがあり(写真5)、その奥の一つがチョーオニュー(8201米)とのことですが、よく識別出来ませんでした。

写真6 写真7

この後、約2時間かけて、尾根を登り、4850米の展望台で休息しました。ここからの眺めは最高で、初めてマカルー(8463米)を見ることが出来ました(写真6)。異常なマカルー西壁も確認できます(写真7)。山野井泰史が敗退したあの岩壁です。

写真
写真9
写真10 写真11

ここではロブチェに向かって、左後方にタムセルク(6623米)・カンテガ(6799米)を見ることも出来ます(写真8)。背後にはアム・ダブラムとモレーン湖があります(写真9)。ゆっくり休んで(写真10・11)、雄大なヒマラヤを楽しんで、ここからデンポチェに下りました。本日の5000米ではバテはしましたが、高山病は起きませんでした。

写真12 写真13

午後は休息し、日没時には、夕陽のローチェを楽しむことが出来ました(写真12・13・14)。

写真14

10月22日(水)

朝、外に出てみると、透き通った空気のおかげか、ローツェがすぐ近くに見えます(写真1)。南壁は目前にあり、右側の稜線を登れば、日帰りが可能と思う幻想に陥りました。ローツェ南壁は1990年代に登られていますが、冬季は、日本山岳会東海支部により、3度目の正直で、2006年に初登攀されています。

写真1
写真2 写真3

午前8時出発しました。昨日登った尾根に出て、ロブチェ(4930米)を目指し、砂地を歩きます。左にチョラツェ(写真2)がでてきます。その後にはロブジェ(6119米・写真3)が出てきます。川を渡ってトゥクラで昼食を食べ、1時間ほど急坂を登ると、ヒマラヤで亡くなられたシェルパの墓地に出ました。

写真4 写真5
写真6 写真7

ここからクーンブ氷河のモレーンを1時間強歩くと、午後2時に、ロブチェに出ました。このモレーンでは前方にプモリを(7161米・写真4・5・6)、右にヌプツェを見ることが出来ます(写真7)。プモリの手前にある、黒い丘がエベレスト街道トレッキングの目的地カラパタール(5545米)です。ヌプツェはディンポチェから見ると、平坦な稜線ですが、ロブチェから見ると下部が大きい三角形になります。

夕方のヌプツェに夕陽が当たり、金色に光っていたのが、印象的でした(写真8)
写真8

 ロブチェに着いたら、日本人ガイドのHさんから、ネパール人のサーダーが斉藤さんは高山病だと言っているとのことで、病人扱いされてしまいました。

私も軽い高山病になっているとは自覚していましたが、ふらふら歩くのは私の歩き方、冷たい風にあたれば、目から涙が出る、元々風邪気味なので、鼻水が出るのはやむを得ない、涎がでているとのことだが、これは瞬時のこと、いずれも日本の山でも経験している現象なので、「明日からは登るのではなく、下りてください」といわれた時は、「なぜだ」と思いました。

しかし、今回のトレッキングでは脈拍が高く、いつも最後を歩いており、同行者に迷惑をかけているかも知れず、更なる迷惑をかけることは避けるべきと思い、文句は口に出さず、下りることに同意しました。頭痛は無く、食欲もあり、脈拍は高くても、酸素濃度は80前後だったので、もし登るか、下りるか、本人に任せられたら、登ることを選んだでしょう。

 

私のエベレスト街道トレッキングは残念ながら5000米で終わりました。カラパタールに行けなかったことより、エベレストに一番近いところで、エベレストの雄姿を撮りたかったのですが、これが出来なかったことが残念です。

本隊より2日早めて下山しますので、ホテル・エベレスト・ビューに2日余分に滞在し、ここで合流することになりました。



10月23日(木)

 朝食の時、私もそれなりに食欲はあったのですが、隣の女性が、食事後「ああ美味しかった」といわれた時には「女性はタフだな、私は勝てない、今日下るのは正しい選択」と思いました。

午前8時、天気快晴、本隊はゴラクシェップ(5100米)に向かい、私(高山病認定1号)とKさん(認定2号)は、ぺリチェ(4215米)に向かいました。同伴者は、アシスタントサーダーのミノダさんと若いポーターの2名でした。ポーターは2人の荷物(30キロ強)を運ぶ役です。

斎藤(洋)さんによれば、ゴラクシェップには、特に問題なく到着しましたが、夕方、夕陽のエベレストを見る目論みは、ガスが発生して、実現出来なかったそうです。ロッジは大部屋で、夜中に他のグループに高山病患者が発生し、ひと騒動があったそうです。この日ガイドのHさんが高山病(認定3号)になり、ロブチェまで降りたとのことでした。

写真1 写真2
写真3 写真4
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 私達4人組は、シェルパの墓地でゆっくり休み(写真1・2)、道筋のロッジでお湯をもらい、カップラーメンを食べ、回りの山々を眺めながら歩き(写真3・4)、午後12時には、ぺリチェに着いてしまいました(写真5)。ぺリチェのロッジでは、日用品が売買されていました(写真6・7)。

写真7

 若い女性のグループが食堂に集っていたので、お国を訪ねてみるとイタリー人でした。日本人のグループは定年後のジジ・ババばかりなのに、欧米人は老若男女がいて長い休暇の取れる欧米文化との違いを再認識させられました。

 各ロッジで、宿泊のトレッカーにお国を訪ねてみましたが、カナダ・オーストラリア・イギリス・ドイツ・フランスの欧米人が多かったように思います。

 夕食はチーズとニンニクで炒めたスパゲティーでしたが、なかなか美味でした。朝食はパンとオムレツでした。宿泊代は夕食・朝食込みで1000ルピー(1500円)前後でした。食事なしでは、200ルピー(約300円)とのことでした。


10月24日(金)
写真1 写真2
写真3 写真4

 斎藤(洋)さんによれば、本隊は早朝、快晴の中、カラパタールに登頂し(写真1)、左にエベレスト、右にヌプツェを直近で見ることが出来たそうです(写真2・3)。カラパタールでは、おまけまでついて、ヌプツェの岩壁の大雪崩まで見ることが出来たそうです(写真4)。この4枚の写真は、斎藤(洋)さんに提供してもらったものです。

エベレスト街道では、長い稜線のヌプツェが常にエベレストの前に鎮座して、頭部を残して、エベレスト大半を隠しますが、カラパタールまでゆくと、ヌプツェは右側の尖峰に変貌し、エベレストは左側に全貌を現すようになります。

写真5 写真6

 さて私達4人組は、午前8時にデポチェ(3820米)に向けて出発しました。ローツェを背後に、左にアマ・ダブラムを見ながら下ります。前方にはタムセルク・カンテガ・コンデリが見えます(写真5・6・7)。途中の村落で昼食をとり、ネパールの野菜カレーを食べてみました。味は通常のカレーですが、野菜が日本と違うので、少し違和感がありました。

写真7

 
 一部、登りはありますが、本日は下りの行程なので、気分が楽です。途中、日本人の老婦人が、ネパール人ガイドと登ってくるのに出会いました。年齢
76歳、カラパタール14回目、大分県から来られたとのことでした。あとで聞いた話では、ヒマラヤでの有名人とのことでした。

 スト−パを見て、右手にクーンビラが見えてくるとデポチェに着きました。午後2時半でした。

今日はアシスタントサーダー、ミノダさんの25歳の誕生日とのことで、Kさんと相談して、1000ルピーをお祝いとしてあげたところ、彼は村のベーカリーを探して、ケーキを買ってきました。仲間内で食べるはずでしたが、食堂にいたオーストラリア人のグループが誕生祝いに参加してくれたので、皆で一口だけケーキを楽しむことになりました。


10月25日(土)

午前8時にホテル・エベレスト・ビュー(3880米)に向けて出発しました。天気快晴、タンポチェを越えると、シャンポチェの丘が見渡せ、ホテル・エベレスト・ビューも見えてきます(写真左)。ホテルの後方にはコンデ・リが広がっています(写真右)。

写真3 写真

ここからブンキタンガまで下り(写真3)、つり橋を渡って、ロッジでスパゲッティの昼食をとり、クムジュン村まで登って(写真4)、樹林の中を更に登ると、ホテル・エベレスト・ビューの裏側に到着しました(写真5)。ホテル着は午後3時半で、意外と時間が掛かりましたが、高度順応したのか、気分も爽快になり、楽しい1日でした。

写真5

ホテル・エベレスト・ビューは、部屋数は12室で少ないのですが、各部屋は東京の一流ホテル並みに広くなっています。水が不足しているので、風呂には入れませんが、バケツ一杯のお湯がもらえるので、頭を洗い、体を拭くことは出来ます。部屋には電気ストーブが備えられていますが、火力が弱いので、寒く感じることがあるのが弱点です。

 このホテルの最大の売り物は、部屋のベッドに横たわりながら、世界最高峰のエベレストを見ることが出来ることです。実際これは可能でした。この日は夕方になり雲が出て、エベレストの写真は撮れませんでした。夜になり、ヒマ観社長の宮原さんが宿泊しており、一緒に食事をすることになりました。食事しながら、ホテル・エベレスト・ビュー建設の苦労話等を聞かせてもらいました。

「ホテル・エベレスト・ビューは、40年前、32歳の時、エベレストの見える丘陵を見つけ、建設を決断し、準備に1年、建設に3年かけて、1972年に完成しました。資材は14日かけてカトマンズからポーターが運びました。実家が信州上田で、旅館をやっており、内装は、上田から大工2人呼んで完成しました。費用は1、5億円で大半は大学関係者の寄付でした。」

「ホテル・エベレスト・ビューはクーンビラが削られた砂地の上に建設されたので、水が全く出ません。谷から水を吸い上げるには1キロのパイプ、それに電力が必要で、経済的に成り立ちません。現在は下のクムジュン村から水を背負ってあげています。これは村の女性達の仕事で、貧しい村の人達の家計を助けています。」

私が聞いていた話は、宮原さんは日大山岳部でエベレストに登って、そのままネパールに居付いたということでしたが、実際は若い頃登ったのはダウラギリで、エベレストは還暦に時で、南峰まで登ったそうです。ネパールに来たのも技術指導で、帰国直前にエベレストの見える丘陵を見つけて、それでネパールに留まったそうです。

現在はネパールの国籍をとり、シェルパの生活向上などにも尽力されているようです。今年もポーターが2名、過労死していると嘆き、宮原さんのシェルパへの思い、優しさが伝わってきました。


10月26日()

写真1 写真2
写真3 写真4

 
 午前6時に起きて、快晴のエベレストの写真を撮りました(写真1・2・3・4)。左がタウツェ、真ん中左がヌプツェの背後にエベレスト、真中右側がローツェ、右がアマ・ダブラムです。

8時に宮原さんと食事して(写真左)、サウスコルやヒラリーステップの場所を指差して教えてもらいました。宮原さんは還暦の時に、エベレスト南峰を登られていますが、サウスコルを越えると、シェルパも自分のことしかやらなくなる、食事中も酸素を吸って、食べたり、吸ったりで大変だったと、8000米を越えての秘話を聞かせてもらいました。

 

 ホテルに弁当を作ってもらい、10時にクムジュン・クンデ村の散策にでかけました(写真左)。Kさんは、部屋で休息を取り、ホテルのガイドと二人で出かけました。

写真7 写真8
写真9 写真10
写真11 写真12


 ヒラリー学校、病院等を訪ね(写真7・8・9)、お寺にある雪男の頭髪を見たりしました。村の背後には神の山クーンビラがあり、前方にはタムセルクがあります。村から見るタムセルクは氷河が落ちてくるようでなかなか迫力があります(写真10)。右にはコンデ・リがあり
(写真11)、左にはアマ・ダブラムがあります(写真12)

 

 この村は、クーンビラの岩が崩壊した砂地で、水が不足し、畑はあっても、せいぜい小さなジャガイモくらいしか出来ません。シャルパの村は、実は大変貧しい村です。水はクービラの中腹からパイプで運んでおり、村の中央に公衆水場がありました(写真13)。この水場も外国からの援助で出来たとありました。ホテル・エベレスト・ビューの水もここから村の女性によって運ばれています。

写真14 写真15

 村を一回りした後、ロッジで弁当を食べ、村の子供たちにビスケットを分けてあげたりして(写真14)、その後シャンポチェを経由して、正面からホテルに戻りました(写真15)。部屋ではベッドからエベレストガ見えました(写真16)

写真16


夕方、エベレスト方面は、曇天で、見えなかったのですが、突然ガスが晴れて、夕陽のエベレストを見ることが出来たりして(写真左・右)、落ち着かない時を過ごしました。



10月27日(月)

 
本日はエベレストも雲の中でお休みです。私達も午前中は休息、午後は本隊を出迎えに行くことにしました。朝食後、ホテルの前の広場が騒がしいので出かけてみると、ナムチェの谷に向かって(写真左)、パラグライダーが始まるところでした。風が弱くて飛び出せないようです。お国を聞いてみるとドイツとのことでした。小飛行をした後(写真右)、鞍部で、風を待って休息に入ってしまったので、見物は止めて、ホテルに帰りました。

 
 昼食後、天気は回復し、快晴の中、本隊を出迎えにクムジュン村のほうへ下りてゆくと、ゾッキョ
6頭が坂道を上がってきました(写真左)。本隊の荷物を運ぶクルーでした。もう少し下って、小高い丘の上で待つと、午後2時ごろ、本隊が村に入って来るのが見えました(写真右)。カラパタールに登り、皆さん少々お疲れの様でした。


 私達を含む本隊は、クムジュン村のストーパ
(写真左)、学校を見て、シャンポチェの丘に登り、前方にエベレストを見ながら、しばらく丘を散策し(写真右)、正面玄関よりホテル・エベレスト・ビューに入りました。


夕方、本隊を迎えて、エベレストが、赤く燃える夕焼けの姿を、惜しみなく披露してくれました



10月28日(火)


 ホテル・エベレスト・ビューは、食事つきで、1泊200ドルの超豪華ホテルで
(ちなみにロッジの宿泊代は、食事なしで200ルピー、300円)、ヒマ観のツアー以外では、まず泊まれません。このホテルに、追加料金を取られることも無く、3日間宿泊して、エベレスト・ローツェ・アマダムラム・タウツェの山々を朝から晩まで見ることが出来たのは幸運でした。カラパタールに行けなかった無念が報われた感じです。

写真1 写真2

朝食後、テラスで、エベレストを背後に、全員の記念写真を撮りました(写真1)。出発の準備をしていると、右のタムセルクの方向から、軍の大型のヘリコプターが飛んできて(写真2)、何が起きたかと驚いて見ていると、ホテルの後ろのヘリポートで着陸しました(写真3)。降りてきたのは、カトマンズから来たアメリカの観光客で、ホテルでエベレストを見て、お茶を飲んで、またすぐ帰るのだそうです。軍のヘリコプターで観光客を運ぶのはネパール的で、ヘリコプターでエベレストを見に来るのは、アメリカ的だと妙に納得しました。

写真3
写真4 写真5
写真6 写真7
写真8 写真9

 午前815分、天気快晴、ホテル・エベレスト・ビューに別れを告げ(写真4・5)、パクディン向けて出発しました。まずナムチェまで急坂を下りて、バザールを通って(写真6)、村を抜けると(写真7)、ここからは来た道を戻る復路となりました。相変わらずの埃道です。エベレストに別れを告げ(写真8)、途中昼食を食べ、国立公園事務所で下山手続きをして、つり橋を6ヶ所通過して、午後330分に緑多い村、パクディンに着きました(写真9)。パクディンはお祭りの真最中でした(写真10)。以外に時間が掛かりましたが、私は高山病から回復し、快調でした。

  

写真10

10月29日〔水〕

写真1 写真2
写真3 写真4


 バクディンのロッジの庭には綺麗な花が咲いていました(写真1)。菜の花やコスモスもあり、日本の春秋の花が咲いています(写真2・3)。街道沿いには、往路では気が付かなかった、見慣れない花が咲いていました(写真4)。 

写真5 写真6
写真7 写真8


 午前
8時、高曇りの中、ルクラ向け出発しました。昨晩雨が降った様で、道が濡れており、埃から開放されました。途中、顔を出したクスムカングル(写真5)に別れをつげ、全員快調に登りました。復路ですが、最後に登りがあります(写真6)。途中の村々は、お祭りの真只中で、少女達が踊っていました(写真7)。1130分にルクラに着きました(写真8)。


 ルクラは曇天でしたが、街道筋で少年少女による踊りが繰り返され(写真左)、ゾッキョが遠慮気味に脇を抜けてゆくのが見られました
(写真右)


 夜、クルーに対する慰労会が開かれ、大枚(?)のチップが全員に渡され、ヒマラヤのお酒を飲みながら、ネパールと日本の山の歌を歌いあいました

 今回のトレッキングで大役を果たしてくれたのは、ゾッキョでした。ゾッキョは荷物を背負って岩山を登るヒマラヤの山道に欠かせない小型の労働牛です。何を食べているのか彼らの餌をチェックしてみたら、小さいジャガイモでした。ゾッキョはヤクが父で、メスのドッキョが母で、オスのドッキョには生殖が許されません。荷物を背負って歩くだけの一生には何か哀れを感じます。ゾッキョにこそチップをあげるべきだったかもしれません。

 

写真13 写真14

 今回のトレッキングのガイド役、Hさん(写真13)・ベンバ(写真14)・ミノダ(写真15)の三人にも感謝しました。

写真15

1030日(木)

朝、雨が降っています。午前8時30分発の飛行機に乗るべく、空港に行きましたが、飛行機が来ません。ただ雲が切れ始めましたので、カトマンズに帰れる可能性は出てきました。2時間ほど遅れて、10時20分に飛行機に乗れました(写真左)。しかし帰路は雲の中で、機中からはヒマラヤは見えず残念でした。

カトマンズは晴れており、日本蕎麦屋で美味しい蕎麦を食べ)、ホテル・ヒマラヤに入りました。風邪が悪化した人、おなかが痛む人が出て、午後は休息しました。

 


10月31日()

写真1 写真2
写真3 写真4


午前中は、ヒマ観が準備したカトマンズツアーに参加し、まずスワヤンブナトに行きました
(写真1)。ストーバに描かれているのは「四方を見渡す仏陀の智慧の目」だそうです(写真2)。その後、ダルバール広場に行き、宮殿や寺院を散策しました(写真3)。クマリの館にも行きました(写真4)。クマリには会えませんでしたが。

午後は一人で、ホンダの販売店を訪問し、20数年振りにカトマンズの知人と歓談しました。ほとんどゼロだったホンダ・バイクの販売が、現在、年間3万台とのことで、私にとっても大変うれしいことでした。


11月1日()

写真1 写真2
写真3 写真4


 朝一番で、ホンダの販売店に車を出して貰い、ナガルコットに行きました。天気快晴です。午前6時に出発し、3時間の強行軍です。朝の貧しい田舎町を通り抜け、ナガルコットの丘に登り、ランタンリルン(写真1)、ドルジェラッパ(写真2)、ガネッシュヒマール(写真3)を見ることが出来ました。エベレスト方面は朝日の加減で、見えにくかったのですが、空間にシャッターを押してみたら、遥か遠くにエベレストが映っていました(写真4)。この写真が今回報告の最後の写真です。真中の小さな突起がエベレストです。

9時にホテルに帰り、10時に同行者と空港に向かいました。バンコック経由の東京行きです。


11月2日()

午前6時に成田に着きました。


終わりに:


 帰国時点では体調は良かったのですが、その後、喉が痛み出し、約20日喉の痛みに悩まされました。ヒマラヤの埃、ヒマラヤ風邪の光栄に浴したと思い、ひたすら我慢しました。

 さてもう一度、カラパタールをトライしてみるかと自問して、現在の結論は古希になって、まだ元気なら、再挑戦してみようといったところです。

 

 最後に、エベレスト街道の名峰の写真を添付しておきます。エベレスト、ローツェ、アマ・ダムラム、タウツェ、プモ・リ、ヌプツェ、マカルー等です

いつも見えていたローツェ南壁の冬季初登攀のルートも添付しておきます。

(社 )日本山岳会東海支部報告書「K2からローツェへ」2008年刊より