11月初旬 大菩薩峠 | |
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参加者 小田、杉村、金子各OB (41年卒) 日時 09年11月7日、8日、2日間 コース 7日、都内〜塩山〜恵林寺〜雲峰寺〜裂石(泊) 8日、裂石〜上日川峠・ロッジ長兵衛ー 大菩薩峠ー 親不知ー雷岩・大菩薩嶺分岐ー福ちゃん荘ー 上日川峠〜栖雲寺〜甲斐大和〜塩山〜帰京 高校時代、大菩薩峠は乾徳山と並んで、東京近郊の代表的な登山コースでしたが、今まで訪れる機会がありませんでした。 大菩薩峠は中里介山の長編小説で余りにも有名ですが、江戸時代甲州街道の裏街道として関所がないため、結構利用されていたそうですが、明治になって同じ青梅街道の柳沢峠を、馬車が通れるように開削してから街道の峠としての価値は失われ寂れてしまいましたが、小説によって名所になりました。 この峠に立ってみると、大菩薩峠がなぜ近郊登山の代表的なコースだったのか解かりました。とにかく眺望が素晴らしいの一言です。 また今回時間があったので、武田氏関連の重要な寺を3箇所巡ったこともあり、甲斐の長い歴史を見つめてきた大菩薩峠の味合いが余計深くなりました。 |
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明治末期から大正にかけての大菩薩峠入り口 甲州市パンフレットより | |
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乾徳山恵林寺の国重文の四脚門です。 乾徳山恵林寺は1330年、夢想国師によって開山された臨済宗妙心寺派の古刹で、塩山郊外の乾徳山の麓の雁坂街道沿いにあります。信玄はこの恵林寺の快川和尚に影響を受けこの寺を菩提寺と定めました。 |
恵林寺の三門で2層建です。武田滅亡直後、信長はこの寺に押し寄せ、潜伏保護していた者を引き渡すよう求めましたが、快川和尚は応じなかったため、この三門に僧100人を押し込め火を放ちました。門には快川和尚の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」の遺偈が掲げられています。 | 恵林寺の見事な宝物館を見た後、柿の産地なので「柿すだれ」を見たいものだと捜していたら、柿農家を見つけました。この辺では干し柿のことを枯露柿と言いますが、柿の中でも最も大きい百目柿を手作業で皮を剥き干し柿にします。柿農家は今、干し柿つくりに大忙しです。 |
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塩山から恵林寺に乗ってきたタクシーに、午後来て貰って大菩薩峠登山口の裂石の宿まで移動しました。宿に荷を置いて、裂石山雲峰寺に行きました。雲峰寺は聖武天皇の天平時代行基によって創建され、現在は臨済宗妙心寺派の古刹です。 | 本堂と庫裏は室町時代の建築です。雲峰寺は武田氏が出陣の際、戦勝祈願を行った寺院で、宝物殿には武田の「御旗」「風林火山の孫子の旗」「諏訪神号旗」「馬標旗」が納められています。武田氏滅亡の際、部下の武将がこれらを携えて逃れ、ここに納めたそうです。 | 翌日、8:30に登山口から土、日、祝日に運行する乗り合いタクシーにて上日川峠のロッジ長兵衛にやってきます。ここは大きな駐車場があり、大半の登山者は塩山経由でなく、甲州街道から甲斐大和で日川渓谷沿いの県道に入りここまでやってきます。 |
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大菩薩峠への道は広くて緩やかで快適です。途中、唐松尾根の分岐にある福ちゃん荘で一休みしましたが、昔話をしながら歩いていたら、あっという間に峠に着いてしまいました。峠からの富士山です。杉村OB撮影の画像ですが相当ズームをきかせてています。 | 峠からの眺望は抜群です。眼下に勝沼や塩山の町が広がり、その向こうに南アルプスの全山が拡がります。南アの全山は長すぎて中々見ることはできませんが、ここでは鳳凰三山や鋸初め甲斐駒から赤石、聖、光まで見えます。おまけに白根三山の上に塩見まで頭をだしています。 |
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大菩薩峠から大菩薩嶺の稜線を辿ると避難小屋のある昔の峠に出ます。 | 富士や南アの絶景を楽しみながらのんびりと稜線を辿ります。 | 途中岩がゴツゴツした親不知の頭で大休止を採り、大菩薩嶺は眺望がないためカットして雷岩から唐松尾根経由で下山します。 |
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上日川峠からバスで甲斐大和駅に向けて日川渓谷沿いに下ります。バスを途中下車して天目山栖雲寺に寄りました。栖雲寺は鎌倉時代、中国天目山で修行した業海本浄が創建した臨済宗の寺院です。 | この寺の裏は山の斜面の利用し業海本浄が作庭した広大な禅庭で、自然の巨大な岩を石組にした日本では珍しい山岳庭園です。 | 世に言う武田勝頼が自刃した天目山の戦いは、ここではなく、実はこの下流の渓谷で、勝頼は武田ゆかりのこの天目山栖雲寺を死地に求めましたが、道なかばで敵に阻まれここまでたどり着くことは出来ませんでした。 |
09年11月上旬 甲武信岳〜国師岳 | |
笠原OBのリポートです。 | |
メンバー:広瀬OB(36年卒)打矢OB(37年卒)、笠原OB(40年卒) 期間:09年11月5日(木)〜6日(金) 行程:5日、小淵沢集合→信濃川上→毛木平〜千曲川源流〜甲武信岳〜甲武信小屋(泊) |
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甲武信岳は、甲州、武州、信州の三国の継ぎ目に位置し、金峰山・国師岳とともに関東山地の最高部を成し、山頂は森林限界を抜けようとしている。
(注1):代表編集委員:大森昌衛・端山好和・堀口万吉、日本の地質3、関東地方、P3、1986、 共立出版 |
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11月5日(木)晴れ |
毛木平:(標高1480m付近) | 千曲川源流まで4km: 林道終点。 |
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名古屋発の広瀬OBと小淵沢駅で合流し信濃川上下車。タクシーで |
緩やかで歩きやすい。広瀬さんが前夜のホテルのパーティで調達した豪華な各種ケーキの恩恵に与り、翌日まで休憩の都度美味しく頂くことができた。 |
千曲川遊歩道ナメ滝:1780m付近。 | 甲武信岳頂上(2475m) |
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流れは穏やかで樹林は静かだった。この先、源流への路をじっくりと |
源流辺りから雪も見るようになり、稜線に出ると秋の日は釣瓶落としとなって、頂上に着くと日は八ヶ岳の向こうへ暮れた(17:11)。 |
甲武信小屋の夕食 | |
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:先客の後から着座し、カレーライスに持参のフランスワインととろけるチーズを添えての夕餉となったが時間は未だ早かった。その後、大型の液晶モニターで山のオリジナルDVDの放映。我らはストーブを囲み小屋主が2月になると九州の山々などを登りに行くと聴き広瀬さんが感心して話し込んだ。 |
11月6日(金)快晴 |
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甲武信小屋前 | 甲武信岳から国師岳(2592m)・金峰山(2599m) |
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後方に太陽光発電パネルが見える。トイレは水洗で快適だった。 |
今日歩く国師岳への稜線と、関東山地最高部を観察する良いポイントだが、今日中に九州まで帰るにはゆっくりはしていられない。 |
甲武信岳から白根三山・金峰山 | 両門ノ頭(2263m)から国師岳 |
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南アルプスは雪で白い。 | 樹林の縦走路にあって眺望良し。右の長野県側は斜面が緩いが左の山梨県東沢側は急斜面となって浸食が進みつつある。 |
両門ノ頭から | 両門ノ頭から塩山尾根、東沢方面 |
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甲武信岳・木賊山(2469m)を振返る。 | : 左のギザギザ尾根は鶏冠尾根、右遠景は牛首(2086m) |
両門ノ頭から富士山、中景黒金山(2232m) |
両門ノ頭から金峰、右岩峰は兜岩(2320m) |
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左牛首。大気の透明度が欲しい。 |
兜岩を眺めつつ、広瀬さん持参の信玄餅を黄粉にまぶして味わった。左の高みは朝日岳(2579m)。 |
縦走路の林中 | 国師岳三角点 |
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この後、国師タル付近のふかふかの地面で、広瀬さんが大分から持参 |
東の肩から広瀬さんの携帯でタクシー会社へ電波が届いた。緩く登ると国師岳に至った。深く碧い空の下で、広瀬さんお奨めの大分名産の臼杵せんべいをパリパリと軽快に食べた。ここで女性2人パーティに会うまでは殆ど行き交う人がいなかった。 |
三繋平からの北奥千丈岳 | 前国師岳 |
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奥秩父最高点2601mへの往復は省略した。 |
西斜面に入り、風が強く当たるためか風に流された枝ぶりの樹木が目についた。日陰には雪が残っていた。ここから下り。 |
前国師岳から金峰山・五丈石 | |
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: 金峰山頂の西にある五丈石は高さが18mもあるトア(岩塔)である。氷期には埴生帯が下がってはげしい凍結が起こる環境となり、金峰山を構成する花こう岩が大まかな間隔をもつ節理が発達していたので、凍結破砕作用によって周囲が壊され、節理間隔のとくに大きいところが塔状に残ったものだそうだ。つくられた岩塊は、凍結―融解で斜面上を少しずつ移動し、全体になめらかな斜面をつくり、岩塊斜面の化石として、亜高山帯のコメツガ林の下にも広く分布して、大弛峠を越える林道沿いの2100m以上で観察される(注5)。 (注5)小泉武栄+清水長正編(1992)、 P89、山の自然学入門、古今書院 |
前国師岳から五丈石・朝日岳・遠く八ヶ岳 | 前国師岳からの下り木道 |
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風衝斜面であることがうかがわれる。 |
: 大弛峠へ下る路は階段と歩道が立派に整備されていた。 |
大弛小屋前 | 大弛峠から川上牧丘林道 |
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小屋内の水場から水が流れ出し、今日の行程で唯一の水場だった。 |
大弛峠に14:50着くと、タイミング良く迎えのタクシーが来た。整備された舗装道路を快適に下り塩山16:00着。広瀬さんは九州へ帰る予定を変更して高田馬場へ向かい、八王子で別れた。
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09年11月九州バイクツアー | ||
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期間 2009年11月3日から21日 18泊19日 参加者 斉藤(雄)OB 41年卒 単独 |
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初めに: 定年退職後のやりたいことの一つに、バイクでの日本一周があり、2005年初夏に東北・北海道を走り、2007年秋に北陸・中国・四国・紀州・東海道を走り、残るは九州で、昨年2009年晩秋に九州を走って、一応の日本一周を終えました。細かく言えば東北の日本海側、房総、伊豆半島それに東海道の国道は未だ走っておらず、これからも走り続けて、だんだんと完成に近付けてゆきたいと思っています。 私のバイクツアーの特徴は、バイクで走りながら、土地の名峰に登ることで、走って登るのが、誇りでもあり、辛いところでもあります。九州でも阿蘇山・開聞岳、霧島山・由布岳に登る計画を立て、開聞岳を除き、登頂してきました。この登山を中心に報告を致しますが、訪問した各地の印象もお伝え致します。 昨年のツアーが11月になり、ベストシーズンではないのですが、10月後半に川越祭りがあり、わが町内からも山車がでて、この山車を引くのも私の楽しみですので、祭りの後に出かけたしだいです。 |
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第1日:11月3日:川越市―御殿場市―彦根市 快晴寒し |
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本日は祭日でもあり、首都高速道路の渋滞を避けて、まず圏央道・中央自動車道で河口湖まで出ました。前夜富士山に積雪あり、今朝は快晴で、河口湖側は真っ白で綺麗でしたが、気温は零度近くで、寒さに手足がしびれました。御殿場市で東名高速道路に乗り、東名・名神高速道路をひた走って、滋賀県の彦根で降りました。彦根市駅前のホテルにチェックインした後、夕暮れの彦根城を見物、井伊家のお城だけあり、なかなか立派です。天守閣からは夕闇にかすむ琵琶湖が見えました。維新にも大戦にも耐えた、国宝のお城ですが、現在世界遺産登録運動中で、何もかも世界遺産でもあるまいと思ったりしました。 |
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愛車と富士 | 夕暮れの 彦根城 | |
第2日:11月4日:彦根市―姫路城―尾道市 快晴寒し | ||
朝、彦根城を外から眺めてから、山陽自動車道に乗りました。途中、姫路東で高速を降り、青空に映える姫路城を見学しました。姫路城は池田輝政の創った壮大にして華麗なお城であり、国宝・世界遺産です。初めて見物しましたが、一度は見ておく日本の至宝だと思います。城下で日本そばを食べ、高速に戻り、広島県の福山東で降りました。国道を走行中に福山駅を見逃し、そのまま走って尾道市に出て、駅前ホテルに泊りました。尾道は、港町で四国への出入り口です。林芙美子の「放浪記」で有名ですが、余り情緒は感じられませんでした。広島県なので駅前でお好み焼きを食べましたが、ちょっと量が少ない感じでした。 |
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朝の彦根城 | 姫路城 | |
第3日:11月5日:尾道市―大宰府―福岡市 晴れ暑し | ||
朝、尾道の駅前をブラブラした後、山陽自動車道に乗り、途中、中国自動車道に入り下関市を越えて、九州自動車道に入り、門司市から北九州市に出ました。海岸線を走る手もありましたが、時間がかかりそうなので、そのまま山間部の高速を走り、大宰府まで走りました。九州北部にこんな山間部があることは新たな発見でした。大宰府市では天満宮に参拝し、孫の学業成就のお守りを買いました。かって家族で九州旅行した際、ここでお守りを買ったのですが、自分の子供達にはご利益は無かったようです。それでもまたお守りを買ったのは、爺心というものでしょう。大宰府市から福岡市まで都市高速を走り、博多駅前の東横インに宿泊しました。今後都心では東横インが主なる宿泊所になりました。 |
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大宰府天満宮 | 大宰府天満宮 | |
第4日:11月6日:福岡市―唐津市―佐世保市―ハウステンポス―長崎市 晴れ暑し | ||
福岡市から海岸線を走り、佐賀県の唐津市・伊万里市・長崎県の佐世保市を越えて、山間部を走ると右側の丘の上に異様な塔が見えてきます。近くの休憩所で調べてみると、大戦時の針尾無線塔で、「新高山登れ」もここで発信されたとのことでした。ここで少し道を戻り、長崎県で有名なハウステンポスに寄ってみました。オランダの街並みを作り、高級ホテルを建て、近くには高級リゾートマンションもありますが、経営的には上手くいっていないようです。入場料だけで、3200円もとるというので、外から写真を撮って、長崎市に向かいました。長崎市手前で、昼食の長崎ちゃんぽんを食べました。麺が太いのが私の好みではありませんが、味は良かったです。長崎市では東横インにチェックインした後、平和公園、浦上天主堂を訪ねました。二度目の訪問です。平和公園は刑務所の廃墟に作られ、平和祈念像があります。浦上天主堂を訪ねると、何故天主堂の頭上で原子爆弾が爆発したのか、この不条理に再度思い至りました。聖母マリアの木製の像が、燃えずに残ったというのも、摩訶不思議なことです。夜、駅前で回転寿司に入りましたが、南国のお寿司は余り美味しくありませんでした。 |
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戦前の無線塔 | ハウステンボス | |
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平和記念像 | 浦上天主堂 | |
第5日:11月7日:長崎市―雲仙岳―島原市―佐賀市 晴れ | ||
長崎市から国道を島原半島に向かいました。湯気の立ち上る雲仙温泉に近づくと、平成新山が見え隠れし始めました。 平成新山見物記:雲仙温泉を越え新田峠に出て、展望台に登ると壮絶な平成新山が正面に見えました。普賢岳が噴火して平成新山が出来たものと思っていましたが、平成新山は普賢岳とは別物のようです。駐車場からケーブルに乗り、妙見岳に登りましたが、これは登山に入らないので、今回の山行には入っていません。妙見岳周辺を歩き、平成新山を間近に見て下山しました。昔、家族で雪の妙見岳まで登りましたが、あの時はまだ平成新山は無かったこと思い出しました。新田峠から島原市に向かいましたが、途中平成新山の全景を見ることが出来、火砕流のすさまじさを実感しました。 島原では島原城を見ましたが、これは復元されたもので、本物ではありません。諫早の干拓地を通り、海岸沿いの国道を走り、佐賀県に入り、間もなく佐賀市に着きました。駅前の東横インに宿泊し、ホテルのカレーライスを食べ(タダです)夕食としました。佐賀市は静かな町でした。
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平成新山 | 新田峠より | |
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普賢岳と平成新山 | 島原城 | |
第6日:11月8日:佐賀市―阿蘇山―熊本市 晴れ | ||
朝、佐賀城周辺を散策し、佐賀の乱の銃痕の残る鯱の門を見ました。門の前に真っ黒に日焼けしたホームレスらしき人が寝ていましたが、立ち上がると若い人で、神戸から自転車で日本一周をしているとのことでした。すがすがしい好青年といった感じでした。本日は阿蘇の高岳に登る予定なので、また日曜日で高速が1000円ということもあり、佐賀大和より長崎自動車道に乗り、鳥栖で九州自動車道に入り、熊本まで走りました。このころから愛車の前輪タイヤがだいぶ減っているのに気が付き、高速走行がちょっと気になりました。今回のツアーに出る前に、ホンダのサービスセンターで点検してもらい、タイヤも問題ないとのことでしたが、これは誤算でした。 |
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佐賀城鯱の門 | 佐賀の乱・弾痕の跡 | |
阿蘇山登山記:熊本市から国道を阿蘇市に向かい、途中で仙酔峡に入りました。仙酔峡から見て左手に岩稜があり、高岳に直接登るには、ここを通るのかと思ったのですが、どうも急峻で不安なので、ケーブルで火口東に登り、そこから高岳に登る計画に代えました。ガイドブックで知ったのですが、ここには鷲ヶ峰という九州随一の岩場があるとのことで納得しました。登山道はもっと右側にあるようです。ケーブルに代えたのですが、運休中であったため、ケーブル部分も歩くことになりました。時間が気になりましたが、天気も良いので12時に歩き出しました。道は良くできており、全く問題なかったのですが、稜線(火口東)に出ると、頭が少しクラクラしました。後でわかったことですが、風向きによっては亜硫酸ガスを吸ってしまうことがあるようで、どうもガスを吸ってしまったようです。稜線からは火口が良く見え、ガス(水蒸気)が濛々と湧きあがっていました。中岳への稜線を歩いていると、気分が良くなり、中岳の岩壁に魅了されて、あとはスイスイと中岳を越え、高岳にも容易に着くことが出来ました。高岳頂上着は14時30分でした。日曜にも関わらず、誰も人がおらず、セルフタイマーで写真を撮り、来た道をそのまま戻り、16時に仙酔峡に着きました。阿蘇の火口、中岳の岩場、広大な外輪山には満足しました。阿蘇もなかなか面白いというのが実感でした。 仙酔峡から熊本市に戻り、駅前に出て、東横インに入りました。もう真っ暗でした。日曜日には、65歳以上の高齢者は30%引きとのことで、3000円ちょっとで泊れました。熊本駅前は新幹線が入るとのことで、再開発されていますが、多くはビジネスホテルで、最近の駅前を象徴しているようでした。
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阿蘇外輪山と愛車 | 阿蘇鷲ヶ峰 | |
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火口からの噴煙と水蒸気 | 高岳頂上 | |
第7日:11月9日:熊本市―熊本城―大津市―天草・下田温泉 晴れ | ||
午前中に熊本城を訪ねました。加藤清正の作った大きな立派なお城ですが、天守閣や本丸御殿は西南の役直前に燃えてしまったそうで、今のお城は戦後に復元されたそうです。西南の役は鹿児島での戦いと思っていましたが、実際は熊本で激戦が行われ、田原坂も熊本県にあります。熊本城を後にして大津市まで行き、ホンダ熊本工場近くにあるホンダトレーデング(私の定年時の職場)のアルミ溶湯工場を訪ねました。ここで社長の二階堂さん(後輩)に会い、昼食をご馳走になりました。食後、二階堂さんに大津を案内してもらい、西南の役の激戦場や西郷隆盛が指揮を取った司令部(お寺)を教えてもらいました。また加藤清正が大津周辺に水を引いて、火山灰の土地を農地に改良したと聞き、加藤清正の大きさも教えてもらいました。天草に行く予定はなかったのですが、二階堂さんから天草の小さなキリシタン天主堂は訪ねる価値があると聞き、急遽天草に方向を変え、宇土市から天草五橋を通って天草市に入り、夕暮れに天草下島の下田温泉に着きました。今回初めての温泉宿を案内所で紹介してもらいました。ガラシャという名の落着いた静かな宿でした。 |
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熊本城 | 天守閣から | |
第8日:11月10日:下田温泉―下島南端―長島町―薩摩河内温泉 本降りの雨 | ||
天気予報は雨でしたが、秋雨でさほど悪化しないだろうと思い、雨対策をしてポツリポツリと降り出す中、出発しました。下島の山間部を走っていると、雨は本降りとなり、やがて土砂降りとなりました。ヘルメットに当たる雨で前は見えず、雨具はびしょ濡れとなり、トンネルに入るとホッとする走行でした。天草下島ではキリシタンの大江天主堂やア津天主堂を訪ねる予定でしたが、雨で標識を見逃して、やむなくフェリーの発着場に急ぎました。この天主堂を見逃したのは、残念なことでした。雨具は完全でしたが、全身びしょ濡れでした。タイミング良く船に乗れて、船で濡れたものを乾かしました。鹿児島県の長島町についてもかなり強い雨が降っており、どこか近くの温泉宿に飛び込むことにしました。阿久根市を越え、薩摩河内市に入る直前に河内温泉のマークあり、ここの温泉ホテルに行ってみることにしました。このホテルに到着の午後1時頃に雨は止みました。ホテルが親切で昼食を出してくれ、その後温泉に入りました。ジャングル風呂で、大きな浴場でした。西郷隆盛が好んだ隠れ温泉と説明書にありました。地獄から天国の一日です。この日、日本全国が豪雨で、被害がでたとのことTVニュースで知りました。 |
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天草フェリー | ||
第9日:11月11日:薩摩河内温泉―開聞岳―指宿温泉 晴れ暑し | ||
昨日の雨は去って快晴となり、暖かい朝となりました。右に明るい海を見ながら海岸線を走るのは、気持ちの良いものでした。日置市、南薩摩市、枕崎市を通って、薩摩半島の先端にある開聞岳の山麓に着きました。
開聞岳登山記:コンビニでおにぎりを買って食べ、山麓の駐車場にバイクをおいて、13時に開聞岳に登り始めました。登る背後から学校のチャイムが聞こえて、和やかな雰囲気ですが、木の根っこを踏みしめての急登が続きます。開聞岳は火山で出来た山ですが、多雨の南国にあるので、ジャングルのような樹林帯が続きます。山には雲がかかり、湿気が一杯になりました。夏のように暑い中、汗をかきながら1時間で五合目に出ました。雲が出ているので頂上に行っても東シナ海を見ることも出来まいと思い、また本日の宿泊先を探す時間も必要と思い、ここで引き返すことにしました。五合目では頂上直下ともいえず、不完全燃焼でしたが、明日天気が良ければ再度登ろうと自分を納得させました。14時30分に麓に下りました。長崎鼻の方向に走り、雲のかかる開聞岳を見て、指宿市に向かいました。 宿泊案内所で2食付1万円のホテルを探してもらい、指宿海上ホテルに泊りました。ここは温泉も食事も一流で、他の宿泊者の話では、予約して1万5千円取られたとのことで、何か得した感じでした。今回九州旅行の一番豪華な宿泊所でした。指宿温泉は40年前に新婚旅行で訪ねた場所で、「あの頃家内も若かった」と思いだし、懐かしい一晩でした。
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開聞岳ジャングルを行く | 木の根っ子の道 | |
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5合目 | 開聞岳を見る | |
第10日:11月12日:指宿温泉―長崎鼻―知覧町―鹿児島市 晴れ | ||
朝、雲がかかっていなければ、開聞岳に登ろうと計画しましたが、高曇りで快晴でなかったので、長崎鼻から開聞岳を見ることに変更しました。鹿児島にあって何故長崎なのか不明ですが、「鼻」というのは逆三角形の形を言うそうです。先端の灯台に行ったり、浦島太郎の竜宮神社をお参りしたり、海に浮かぶ開聞岳の写真を撮ったりした後、先を急ぎました。急いだ理由として、鹿児島市に行く途中に特攻隊の基地であった知覧町があり、知覧の特攻隊の基地跡を見てみたいと思ったからでした。 知覧特攻平和会館訪問記:知覧には基地跡に特攻平和会館があり、特攻前夜に隊員が宿泊した三角兵舎が復元されており、特攻平和観音がありました。庭には映画「俺は君のためにこそ死んでゆく」で使われた隼3型甲のレプリカが置かれていました。特攻隊員の銅像も置かれていました。特攻の母と呼ばれる「鳥濱トメ」さんと隊員の写真レリーフがあり、これは石原慎太郎が寄贈したと思われます。「ホタル」の碑もありました。何故か内部の撮影はできず、持ち帰れる資料もなかったので、正しい情報とはいえないかもしれませんが、少し特攻基地に触れてみたいと思います。知覧は主に終戦直前の沖縄特攻に飛び立っていった陸軍特別攻撃隊の基地でした。この陸軍特攻も神風と呼ばれるようです。この陸軍の沖縄特攻により散華された戦死者は1036名、うち知覧から飛び立ったのは700名前後のようです(陸軍特攻による沖縄特攻以外も含む総戦死者は1417名とのことです)。戦死者の年齢は18歳から25歳くらいまでで、写真で見る限り、若くてにこやかでした。戦死故かもしれませんが、階級はほとんど将校になっていました。訓練は日本各地で行われたようで、出身地は特に九州ということは無く、全国に散らばっています。戦死者の遺書と遺影が残っているだけ、南方やシベリアで死んでいった人達より、少しばかり恵まれているのかなと思ったりしました。 |
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知覧特攻平和会館 | 三角兵舎 | |
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映画撮影用隼3型甲レプリカ | 「鳥濱トメ」さんと隊員の写真レリーフ | |
平和会館を見学後、黒豚ラーメンを食べ、知覧の武家屋敷を見て、鹿児島市に向かいました。錦江湾を越えて噴煙の桜島が良く見えました。鹿児島には15時に着き、駅前の東横インにチェックインし、鹿児島市内を走って、城山に向かいました。城山からみた桜島は、噴煙を濛々とあげており、山の形が見えないくらいでした。城山を下り、西郷洞窟を見て、街中に入ると西郷隆盛の大きな銅像があります。西郷さんが今も敬愛されているのがわかります。小松帯刀の銅像もあります。大久保利通の銅像もありましたが、彼は余り好かれていないようです。明治政府の官僚機構を作った元勲ですが、最後に西郷を自刃させてしまったことが効いているようです。島津斉彬は神となって照国神社に祀られています。 |
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錦江湾と桜島 | 城山からみた桜島 | |
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西郷洞窟 | 西郷隆盛の大きな銅像 | |
第11日:11月13日:鹿児島市―霧島―韓国岳―都城市 本降りの雨 | ||
朝、バイクのシートが灰で白くなっており、桜島の噴煙のすごさを再確認しました。鹿児島人の人体に影響ないのか心配になりました。晴れ間もあり錦江湾に沿って、国道を霧島に向かいました。霧島の温泉街を越えるころからガスが出て、雨が降り出し、高千穂の峰は全く見えず、心細いかなりスローな走行となりました。前輪タイヤの摩耗も気になります。本日登る霧島山・韓国岳(からくにだけ)の登山道を探す頃は、雨は本降りになりました。 |
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桜島雲か煙か | ||
韓国岳登山記:雨とガスでほとんど何も見えない中、霧島道路を走っていると、右手に韓国岳登山口の標識が何とか確認できました。路肩にバイクを置くと、近くで道路工事をしていた若い人が、工事用の駐車場にバイクをおいて良いというので、好意に甘えました。雨に加えて強風が吹き荒れているので、登山は止めようかと思いましたが、開聞岳は登ってないし、韓国岳は登りたいとの気持ちが勝って、完全雨対策をして、階段状の道を登り始めました。出発は11時30分でした。左に硫黄岳の噴火跡を見て、潅木帯に入り、雨・風の中、溶岩の道を1時間程歩くと、9合目に着きました。周りは何も見えません。ここで休みを取り昼食のパンを食べました。食事後、左から吹き抜ける強風にたえながら、しばらく岩の道を行くと、ガスの中に韓国岳の頂上標識が出てきました。1700米です。頂上着は12時50分でした。左は火口なのでしょうが何も見えません。誰もいないので、セルフタイマーで写真を撮りましたが、レンズは雨で濡れており、頂上での写真は、ぼやけたものになりました。下りは快調でしたが、1ケ月程前にこの山で小学生が遭難しており、どの辺なのか気にしつつ降りました。特に迷うところはなかったので、小学生は不運だったと思いつつ、何故徹夜してでも探してやれなかったのか、捜索隊に不満も感じました。14時に登山口に降りました。登る時には気がつかなかったのですが、慰霊の花束がいくつか置いてありました。雨は引き続き降っており、登山口の道路は水が滝のように流れていました。 |
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韓国岳登山口 | 韓国岳登山口 | |
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風雨の登り | 頂上直下の岩場 | |
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韓国岳頂上 | 韓国岳頂上 | |
霧島とえびの高原との境がよく分からないのですが、霧島が鹿児島県、えびの高原が宮崎県という形で区別しておきます。韓国岳の登山口は、えびの高原にあり、ここから小林市に向かって下りました。途中の山道は紅葉が綺麗で、見所が沢山ありましたが、濡れた道に落ち葉がくっついて最悪の走行条件なので、トコトコ走らざるをえませんでした。宮崎自動車道にぶつかり、小林で高速に乗り、都城で降りました。都城市に向かって雨の国道を走っていると、スリープインというビジネスホテルがあり、ここに泊ることにしました。ここは東横インよりも広くて快適な部屋を提供してくれました。関西から西でビジネスを展開しているようです。 |
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第12日:11月14日:都城市―鹿屋航空基地―佐多岬―鹿屋市 晴れ風強し | ||
朝、街はまだ濡れておりましたが、えびの高原の方向は既に晴れていました。本日は九州最南端の佐田岬に行く予定ですが、途中に鹿屋市があるので、鹿屋の海軍特攻跡地をまず見ることにしました 鹿屋航空基地資料館訪問記:特攻基地の跡地は海上自衛隊鹿屋航空基地になっており、ここに鹿屋航空基地資料館があります。資料館の周りには海上自衛隊で使った飛行機やヘリコプターが展示されています。内部は海軍創設から海上自衛隊に至る歴史の展示もありますが(これは遊就館に似ています)、主なるものは、海軍特攻で散華された人達の遺影や遺書の展示です。ここでも写真は撮れず、資料も無いのですが、私のメモによれば、海軍の特攻で散華された戦死者は2531名、その内、鹿屋基地から飛び立ったのは908名です。戦死者が若い人なのは陸軍特攻と同じですが、違いは海軍の戦死者の階級は下士官が多かったことです。なぜ違うのか分かりませんが、陸軍が学徒、海軍が志願兵であったからかも知れません。ここは知覧と違って、神社・仏閣のたぐいは全くありませんでした。 |
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鹿屋航空基地資料館 | 海上自衛隊で使った飛行機やヘリコプターの展示 | |
鹿屋を出て、コンビニのおにぎりを食べ、佐多岬に急ぎました。快晴で右に見える錦江湾は光って、気持ちがよかったのですが、風が強く寒い走行でした。だいぶ走って(約100キロ)佐多岬の駐車場に着き、歩いてトンネルを越え、南国特有の羊歯のジャングルの中をしばらく歩くと、先端の灯台に出ました。強風です。灯台も土産屋も半壊しており、この観光地は廃墟寸前です。佐多岬からは開聞岳がよく見え絶景です。特攻隊員もこの形の開聞岳に別れを告げ、南方に向かったのでしょう。帰りは鹿屋市でビジネスホテルを探したのですが、街中に温泉宿があったので、ここに泊りました。温泉は宿が所有する銭湯になっており、大きな温泉風呂を楽しめました。 | ||
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開聞岳遠望 | 佐多岬 | |
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佐多岬の絶壁 | 佐多岬の南端 | |
第13日:11月15日:鹿屋市―都井岬―日南海岸―鵜戸神宮―宮崎市 晴れ寒し | ||
鹿屋市から国道で宮崎県の串間市に出て、都井岬に行きました。薄曇りで寒い日です。かって新婚旅行で訪ねた時、都井岬にはホテルも沢山ありましたが、ここも今や廃墟寸前で、生き残りは一軒だけのようです。観光地としての売り物の野生の馬も、痩せて惨めな姿です。東国原知事は実態をつかんでいるのでしょうか。TVに出る前に現場を歩くことお勧めしておきます。都井岬から右に蒼い海を見ながら、快適に日南海岸を走り、鬼の洗濯板を越えると、岩窟にある鵜戸神宮が見えてきました。今日は日曜日なので七五三でにぎわっています。鵜戸神宮では長男と三男に縁結びのお守りを買いました。鵜戸神宮は縁結びというより安産の神様の様ですが。ペット用のお守りを売っていたので、わが家の愛犬用にこれを買いました。鵜戸神宮を後にして、国道沿いで休息して、昼食のうどんを食べ、ここで前輪をチェックすると、タイヤが摩耗して、危険のマークが出ていました。宮崎市内でタイヤ交換するしかなく、最初に見えたバイク大型店に入ってみました。ここでは私のバイクのタイヤは無かったのですが、親切にホンダ専門店を紹介してくれました。幸運にもホンダ店では、私のバイクと同じタイヤの在庫があり、ここでタイヤ交換することができました(都心のお店では在庫を持たず、2~3日待つことになります)。代金もまともでした(お店によってボルところもあります)。今回のバイクツアーの懸念が払拭されて、ほっとして気分爽快となりました。宮崎駅前の東横インにチェックインしましたが、この日も日曜日であったので、3000円強で泊れました。宮崎駅は県庁所在地の駅にしては寂しい感じでした。九州新幹線も来ないようですし。夜は駅構内でうどんを食べましたが、宮崎では、うどん店がラーメン店より多いようです。
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都井岬 | 野生の馬 | |
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日南海岸・鬼の洗濯板 | 鵜戸神宮 | |
第14日:11月16日:宮崎市―延岡市―大分市―別府市―由布市 曇り寒し | ||
宮崎市から日向灘を右に見て、国道を日向市、延岡市と北上し、佐伯市で東九州自動車道に乗りました。曇りで寒い日です。大分市を越え、別府PAで昼食のスタミナうどんを食べ元気をつけました。別府の街の温泉の湯気が濛々とあがっているのがよく見えます。余りに寒いので初めて目出帽を着け、ヘルメットをかぶりました。ガタガタしながら山間の高速を走り、湯布院で高速を降りました。駅前に出て、曇り空のなかに由布岳を見ることが出来ました。駅前で二日間の温泉民宿を紹介してもらい、午後一番で宿泊しました。由布岳の見える露天風呂に入り、夜の食事は、美味しいすき焼きでした。宿泊者は私以外には1名だけでした。 宿の女将(おばさんです)から聞いたお話:高速の標識は湯布院であり、駅の名前は由布院であり、町の名前は由布市になっている理由を聞いてみました。最初、温泉街は由布院だったのですが、町村合併で近くの村々と一緒になった時、この町の名称を湯布院としたそうです。その後更なる町村合併があって、新たに市が出来た時に、名称が由布市になったとのことです。こんなことで名称が混乱していますが、女将は由布院に統一したいとの意向でした。なおここに聳える山の名称は由布岳です。 |
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別府の街 | 由布院駅から由布岳 | |
第15日:11月15日:由布院見物―由布院沈殿 雨後曇り | ||
本日は由布岳に登る日でしたが、朝起きると本降りの雨で、山々はかすんでいました。かなり寒くて山は雪が降っている模様なので、沈殿と決め、由布院を散策することにしました。散策先は主に金鱗湖周辺で、冷たい雨の中、湖上には温泉の湯気の影響で、霞がかかっていました。由布岳の方を見ると、源泉のところでは蒸気が湧きあがっていました。湖辺の木々の紅葉は雨に濡れていましたが、紅葉真っただ中といった感じで、大変綺麗でした。寒いので早目に宿に帰りました。宿の夕食は本日もすき焼きのようで、私はそれでよかったのですが、宿の方が気にして外食にして欲しいとのことなので、コンビニで酒・食料を買って、一人、部屋で酒盛りをしました。
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由布院・金鱗湖 | 由布院紅葉 | |
第16日:11月18日:由布院―由布岳―九重町―由布院 曇りのち晴れ寒し | ||
朝起きると、由布岳は雲に隠れていましたが、予報では天気は好転、晴れるとのことなので、バイクで国道やまなみフリーウエイを別府方面に戻り、由布岳正面登山口まで行きました。 由布岳登山記:登山口の待合所で、登山の準備を始めましたが、風が吹き抜け、寒いのには参りました。由布岳頂上付近は雲におおわれていましたが、山全体が白くて、昨晩はかなり雪が降った感じでした。雪で滑るかなとも思ったのですが、ストックは持っているので問題なかろうと判断しました。9時出発です。牧草地を柔軟体操しながら登り、10分程すると樹林帯に入ります。この辺から雪が積もっています。樹林帯を30分ほど登ると合乗越で、ここで小休止を取りました。ここからジグザグの道となり、かなりの雪があって、雪道の登りとなりました。天気は回復中で、時々陽が出て、右手下に、由布院の町もよく見えるようになりました。1時間程、雪道そして最後に岩と雪の道を登ると、マタエ(東の峰と西の峰の分岐)に出ました。ここで小休止です。急に天気が悪化して、ガスで山頂は見えなくなり、風も強くて、気分が滅入りました。ちょっと躊躇しましたが、東の峰に登ってみることにしました。西の峰は鎖場に雪がべったりついているので、登れそうにありません。東の峰も岩場で、雪も着いているのですが、道はしっかりできているので、あまり危険はないようです。15分程登ると頂上に出ました。11時半でした。引き続きガスっているのと、誰も人がいないので、セルフタイマーで写真を撮って下山しました。マタエに戻り、急ぎ下山を始めると、また陽がでてきました。登山口まで下りると、快晴となり由布岳全体を見ることが出来ました。登山口着は13時でした。 |
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雪道登り | 頂上方面 | |
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分岐 | 西の峰登れず | |
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頂上にて | 晴れた由布岳 | |
九重山見物記:登山口で本日後半は何するか考え、せっかくだから九重山を見てみようと思い、やまなみフレーウエイを阿蘇の方向に走ってみることに決めました。その前に今晩の宿泊所を確保すべく、由布院の民宿に再度泊らせてほしいと連絡し、コンビニのおにぎりを食べて、走りだしました。山に雪が積もっているだけあり、外気は零度以下の様で、大変寒い走行になりました。しばらく走り九重山が見えるPAで休んで、雪の積もった九重山や噴煙をあげる硫黄岳を見て、由布院に帰りました。九州の山では九重山を見ましたので、登ったり・見たり出来なかった山は、祖父岳だけとなりました。民宿の露天風呂に入り、すき焼きを食べて、九州バイクツアーの大半が無事終わったこと祝いました。 |
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九重山遠望 | 雪の九重山 | |
第17日:11月19日:由布市―福岡市―門司市―山口市―福山市 晴れ寒し | ||
九州の大半は走り終えたので、本日は高速で岡山県の倉敷市まで走ることにしました。湯布院で大分自動車道に乗り、鳥栖で九州自動車道に入り、福岡を越え、早めの昼食で、とんこつラーメンを食べ、下関で本州の中国自動車道に入り、山口で山陽自動車道に入りました。倉敷はだいぶ近くなったのですが、寒いのと旅の疲れがでたことで、福山東で高速を降りてしまいました。福山市内を走って、スリープインが見つかったので、ここに泊りました。国道沿いの表通りは元気がよいのですが、ちょっと裏通りに入ると、余り元気がありません。その静かな裏通りにもお好み焼き屋があり、量感のあるお好み焼きを夕食としました。 |
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第18日:11月20日:福山市―京都市―大原三千院―大津市 晴れ寒し | ||
京都大原三千院訪問記:三千院には女が一人ぐらいしかいないと思ったのは、全くの幻想で、観光バスが次々と発着し、参道はお土産屋(主に京都の漬物ですが)が続き、そこを観光客が列を作って登っていきます。三千院とは明治になって付けられた名称で、元々は最澄上人が延暦寺建立の際、草庵として作られ、その後天台宗五箇室門跡となったようです。観光客の流れに従い、客殿、往生極楽院(阿弥陀三尊像)、金色不動堂、観音堂、それにわらべ地蔵に手を合わせて、三千院参拝を終えました。三千院は紅葉の季節ですが、紅葉に元気がないので、帰路にお土産屋の店主に聞いてみたところ、今年は突然の寒波があり、紅葉途中でもみじが枯れてしまったとのことです。 この後、寂光院、鞍馬寺に行ってみたかったのですが、時間切れで止めました。大津への帰り道、道を間違え、夕暮れの京都の山の中に入ってしまい、炭焼きのおばあさんに道を聞いたりして、往生しました。暗くなってしまいましたが、大津に戻り、東横インにチェックイン出来ました。
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往生極楽院 | 紅葉 | |
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紅葉を背景に | わらべ地蔵 | |
第19日:11月21日:大津市―浜松市―首都高速―八王子―川越 晴れ寒し | ||
本日は土曜日なので高速は1000円であり、川越市まで一気に帰るつもりでした。 大津で名神高速道路に乗り、名古屋で東名高速道路に入りました。途中、また昼食でラーメンを食べました。土曜日なので、一部渋滞地域もありましたが、バイクなので、時に路肩にお世話になったりして、問題なく浜松に着きました。浜松PAは浜名湖に面していることもあり、強風が舞っていました。ここでお土産にうなぎでも買いたかったのですが、うなぎの店には列が出来ていましたので止めにしました。浜松から途中、富士山を見ながら走りました。今回のツアーは往は富士山を背に、復は富士山を目指す形になりました。東名高速終点の用賀までは問題なかったのですが、首都高速道路に入ってから地獄が始まりました。全くの渋滞で、5米走ってはストップの繰り返しです。首都高には路肩がないので、ズルするわけにもゆきません。首都高は高速1000円の対象外ですが、この施策に影響されているようです。東名厚木で高速を降りなかったことが悔やまれます。用賀から霞が関に行くつもりでしたが、1時間程して新宿方面の標識が出てきたので、首都高は止めることにして、新宿から中央自動車道に乗りました。八王子で圏央道に出て、やっとのことで川越市に帰ってくることが出来ました。用賀から川越まで4時間程かかりました。休日・高速・1000円の施策は全くの失敗と思った次第です。最後に首都高で苛められましたが、無事19日間の九州一周バイクツアーを終えることができました。
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終わりに: 今回のツアーでも、とんこつラーメン、長崎ちゃんぽん、黒豚ラーメン、チャーシューメン等、だいぶラーメンにはお世話になりました。 九州一周バイクツアーの走行距離は5000キロ弱で、他の日本一周の走行距離を加えると15000キロになります。事故もなくこの距離を走れたことを感謝しています。 九州の山行では、開聞岳で夏の暑さを、阿蘇山で秋の爽快さを、韓国岳では秋雨の熾烈さを、由布岳では冬の寒さを経験して、バラエティに富んだものになりました。この登山で、北から南まで日本の山の大半を登ることが出来ました。 このバイクと登山の組み合わせは、高齢者(前期ですが)には負荷多く、今後はバイクと登山は別々にやりたいと思っています。 バイクは自分で走ってくれますので、車体をコントロールするだけで良いのですが、山は自分の足で歩かなければなりません。そろそろバイクとバイバイしようかと思っていたのですが、どうもバイクの方が山より長続きしそうな感じです。
(了)
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09年10月下旬、気象部OBG会・湯檜曽温泉・谷川岳 | |
参加者 宮野OB(35年卒)、小久保OB(36年卒)、東、恩田、金子(弘)、竹内、三木各OB((37年卒)、東夫人、竹内夫人 古林OG、栗又OB、小久保OG(38年卒)、関根、笠原、梅崎各OB(40年卒)、関根夫人、笠原夫人、 渡辺、金子(治)OB(41年卒)、高岡OB(42年卒) 、計20名 日時 10月25日(日)、26日(月) 場所 OBG会 湯檜曽温泉 ハイク 谷川岳は雨天のため中止。 過去2年、初夏に開催された気象部OBG会は、今年から以前のように紅葉の時期に、湯檜曽温泉にて幹事の栗又、渡辺OBのお骨折りで 開催されました。しかし翌日予定した天神尾根〜谷川岳ハイクは、突如発生した台風が太平洋岸を北上すると共に前線を揺さぶり、かって実 戦で学んで身につけた高精度の山岳気象の予報技術を駆使することもなく、朝から完全な雨天となり残念ながら中止のやむなきを得ない結 果となってしまいました。 過去9回気象部OBG会は下記の地で開催されました。 第1回 1998年10月 下諏訪温泉 第2回 2000年10月 白馬村 栂池自然園トレッキング 第3回 2002年10月 桃の木温泉 夜叉神峠・高谷山 第4回 2003年 9月 鈴蘭小屋 中村OB追悼山行・乗鞍岳 第5回 2004年10月 岳温泉 安達太良山 第6回 2005年10月 那須湯元温泉 茶臼岳(悪天のため登山中止) 第7回 2006年10月 蓼科温泉 北八っ横岳〜大岳 第8回 2007年 7月 新穂高温泉 西穂高独標 第9回 2008年 7月 上諏訪温泉 霧が峰 |
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参加OBGの面々です。三木OBはトイレに入られていました。 前列左から関根、栗又、小久保、宮野、東各OB、東夫人、高岡OB、中列左から竹内、笠原、梅崎各OB、後列左から金子(治)、渡辺各OB 小久保OG、恩田、金子(弘)各OB、笠原夫人、竹内夫人、関根夫人、古林OG。右は三木OBです。 |
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朝、宿の窓から白毛門方面を眺めても本格的な雨で、谷川岳ハイクは中止となりました。 | 所用がある金子(弘)OBと高岡OBは、早々とバスで水上駅に向かいました。またこの直後に、白馬から長躯参加された小久保夫妻は恩田OBとバスでロープウェイ乗り場に向ったようです。 |
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東OBは車で来られました。ご夫人共々帰る準備を行っています。 |
三木OBは東OBの車に同乗して来ました。 |
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関根夫妻の車に笠原夫妻が同乗して来ました。 | 宮野OBは東OBの車に同乗して帰ります。 |
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準備が整い出発する笠原夫人と関根夫人です。 | 関根、笠原夫妻は車で一の倉出会い見学に向います。 |
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さて残った鉄道組は、次の路線バスを待ちます。 | 竹内OB、古林OG、竹内夫人、栗又、渡辺、梅崎OBです。 |
09年、9月下旬、鹿島槍ヶ岳 |
メンバー : 秋野、稲吉、斉藤、杉村、金子、各OB(41年卒) 期間 : 09年、9月18日(金)、19日(土)、20日(日)、21日(月)、4日間 行程 : 18日、新宿→大町温泉郷(泊) 19日、大町温泉郷→扇沢手前登山口〜種池小屋〜爺岳〜冷池小屋(泊) 20日、冷池小屋〜鹿島槍ピストン〜冷池小屋〜爺岳〜種池小屋〜扇沢手前登山口→白馬駅前(泊) 21日、白馬駅前→遠見テレキャビン乗り場→地蔵の頭往復→神城→新宿 |
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若い人でしたら前夜発1泊2日の行程で登る鹿島槍を、3泊4日の計画で行くにはためらいがありました。最初の計画では初日、新宿発で種池泊、2日目鹿島を登って冷小屋泊、3日目下山で考えましたが、斉藤OBの数年前登頂の経験から柏原新道は急登が続くため麓で前泊することと、キレット越えの提案がありましたが、皆キレット越え以外の楽なコースで意見がまとまりました。但し3日目は天候等の都合で種池泊も考えられるため、下山後の麓の宿は手配しませんでした。 このような経緯で鹿島槍に向かいましたが、シルバーウィークの絶好の晴天に恵まれ北アの稜線を堪能し、鹿島槍を登るため3泊4日をかけることに対しての事前のためらいがあったことなど霧散してしまいました。私たちの現在の体力にとって 鹿島槍は4日をかけるに十分値するだけの大きな岳でした。 鹿島槍の稜線はOBの方々にとって幾度となく辿った路かと想います。柏原新道が整備されたことと、種池や冷池小屋が大きくなった以外、昔とちっとも変わっていません。秋晴れの北アをご覧下さい。 |
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剱に向かってジャンプする少女 将来の早稲田女流アルピニストとそれを見守るお母さん | |
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斉藤OBが剱に向かってシャッターを押してる時、眼の前で剱に向かってジャンプしている少女がいて、撮影しました。少女はザックの横に大きな犬のぬいぐるみを装着しお母さんと2人連れで、我々と登山口から一緒でしたが、やがて足早に抜いて行きました。 少女のお母さんに「小さい時からアルピニストに育てているのですか?」と尋ねたら、「私は山に素人で、娘が山に行きたいと言うから、装備を購入し娘のお供で来ている」と話されていました。そして「甘やかして育てなくないので、娘の山登りには大賛成だ」とも言っておられました。 |
少女は丹沢で山の魅力を知り、以来お母さんといくつか山行を共にし、将来は山に登るためしっかりとした山岳部の入部 を目指しているとのことです。 お母さんからその話を伺って、我々の5人の眼は輝き、将来ぜひ「早稲田に進学して山の会に入るよう」少女と硬い握手を取り交わしました。 下山を始めて後ろを振り返ると、姿が見当たらないので、少女とお母さんは果敢にもキレットを目指して下ったことが判りました。 |
9月18日(金) 新宿⇒大町温泉郷 | |
午後1時新宿発のあずさでゆっくりと出発。初めてのシルバーウィークの前日のためか自由席は満席になりました。この日は、事前に大町温泉郷のウイークディの各安料金の宿を見つけたので、快適な夜になりました。この宿も翌日からの連休期間は満員だそうです。 | |
9月19日(土) 大町温泉郷⇒扇沢登山口〜種池小屋〜爺岳〜冷池山荘 | |
6時に予約したジャンボタクシーに乗り15分程度で扇沢手前の登山口に到着。登山口の狭い駐車場をはじめてして、路肩にまでびっしりと駐車してありました。 柏原新道は種池と冷池小屋のオーナーが、元々あった扇沢沿いの道を、爺岳南尾根の扇沢に面した山腹を辿るコースに切り開いた登山道です。杉村OBの話では学生時代は扇沢の沢沿いの道だったそうです。 |
私達の学生時代この稜線に上がるのは針ノ木雪渓か、鹿島槍に登るためには赤岩尾根が使われましたが、現在鹿島槍登山にはこの柏原新道が主流となり、赤岩尾根はすっかり廃れてしまいました。冠松次郎の棒小屋沢紀行を読むと、籠川支流の白沢を辿り爺岳南峰と中峰の間で稜線に上がり、種池小屋に下っていました。扇沢も白沢も猟師道として昔から使われて来たのでしょう。 |
柏原新道 | 針ノ木岳を望む |
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柏原新道は種池小屋までの標高差1,100m、4時間半の行程です。取り付きからジグザグの急登で実に効率が良いです。この時期、朝昼非常に温度差があり宿を出る時は寒く、登り始めて1本目では暑くて私はTシャツ1枚になりました。 | 急登のため、登り始めの1時間で高度400mを稼ぎました。扇沢バスターミナルを樹林の間から眼下に望み高度を上げて行くと、眼の前に針ノ木岳がそそり立って来ました。この辺りから稜線に種池小屋が望まれます。 |
森林限界間じか | 種池小屋目前 |
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柏原新道は良く整備された素晴らしい登山道です。私の経験では登山道としてはNO1に近いと想います。辺りの木が低くなりそろそろ森林限界に近づいてきたようです。 | 森林限界を抜けると いきなり種池小屋のトンガリ屋根が眼に入ってきました。 |
最後の登り | 爺岳への稜線 |
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小屋への最後の登りです。稜線は既に紅葉が始まっています。 | 連休初日の種池小屋は賑わっています。ここで偶然高校時代の古い岳友と4年振りに再会しました。小屋では水を売っていますが、どこから引いているのでしょうか。学生時代は、黒部側に1時間かけて水汲みに行った記憶があります。 |
爺岳の登り | 剱が姿を現す |
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爺岳の登りに入ります。爺岳は麓から見ると双耳峰に見えますが、実際は南峰、中峰、北峰の3峰あり中峰が主峰です。迷わず全て巻き道を辿ろうと合意しました。 | 振り返ると雲が切れ、剱が姿を現しました。剱は白馬や唐松から見るとピラミッド形ですが、この稜線からは北方稜線を従えた、横広がりの山容で実に見事です。 |
爺岳南峰の下り | 爺岳南峰と中峰の鞍部 |
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爺岳南峰には登りたかったですが、カットし中峰の巻き道に向かいます。あいにく信州側はガスがかかっていて良く見えません。 | 巻き道と言っても、南峰、中峰、北峰それぞれのピークを10mほどカットするだけなので、登っても撒いても時間はそれほど大差はありません。。 |
姿を現した鹿島槍 | |
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鹿島槍を見ながら昼食 爺岳北峰の下り | |
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黒部側や毛勝は晴れていていましたが、牛首尾根の上部からの後立山は雲に覆われていましたが、突然雲が流れて鹿島槍が姿を現しました。これを見ながら爺岳の北峰の端で遅い昼食にしました。 | 鹿島槍を見ながら冷乗越に下ります。ここから見る鹿島槍は、北峰に突き上げる東尾根をバックに北股本谷、ダイレクト尾根、鎌尾根を胸に抱え実に豪快です。 |
冷池小屋を目指して | 冷乗越・赤岩尾根の分岐点 |
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爺岳北峰から眼の下にある冷池小屋まで30分位で行けそうだったのですが、見えない起伏があり倍以上かかります。 | 冷乗越の手前に赤茶けた尾根の上部が見えます。それを越すと冷乗越に出ます。赤岩尾根は冠松次郎の時代には長ザク尾根と言われていましたが、赤岩尾根の名は赤茶けた岩の名をとったのでしょうか。 |
冷池 | 冷池小屋 |
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冷池です。小屋の前にある小さな池です。昔、見た記憶があります。 | 冷池小屋は北アの人気ルートに位置するため、平屋から2階建てになり大型の山荘に変わっていました。清潔な良い小屋です。 |
9月20日(日) 冷池山荘〜鹿島槍ピストン〜爺岳〜種池小屋〜 扇沢登山口⇒白馬駅前 |
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朝の鹿島槍・まずは布引岳を目指して | 布引を越えて本峰の登り |
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朝6時半、鹿島槍を目指し出発です。食事は前日到着順に2回制を採用しているために出発は後発になりました。 | 途中眺望の良いテント場を過ぎ布引山に登ります。鹿島槍への急な登りは布引山までで、ここを過ぎるとやや緩くなります。 |
古い岳友 | 鹿島槍ピーク |
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前日再会した高校ワンゲル時代の古い岳友は、先発組のため登頂して下山して来ました。再会を約し別れましたが下山後のメールでは新越山荘に泊まって針ノ木、蓮華を登ったそうです。彼は学生時代山学同志会に在籍していました。 | 鹿島槍のピークです。ピークにはキレットに向かう人、キレットから来た人、鹿島槍を往復する人様々です。 この南峰は南北の縦走路と南壁の三方は切り立っていますが、黒部側に落ちる牛首尾根側だけが、なだらかです。 |
針ノ木方面、手前から布引岳・左に爺岳・右に岩小屋沢岳・鳴沢岳・赤沢岳・スバリ岳・針ノ木岳・中央に蓮華岳、稜線は大きくS字を描いています。 | |
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白馬方面、手前から五竜岳・唐松岳・白馬鑓・白馬岳は重なっています、左の突起は旭岳?・朝日岳 | |
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立山三山と剱岳、手前は牛首山その奥は黒部別山 | |
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剱岳、右から小窓雪渓・小窓の頭・小窓王・三ノ窓雪渓・チンネ、八つ峰・長次郎雪渓上部・剱本峰・源次郎尾根・前剱・剱沢上部 | |
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剱を見ながら下山開始 | 東尾根、北俣本谷、大谷原を望む |
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遠くの山が霞むことのない無風快晴の最高の天候の下、道中長いためいつまでも眺めていたいのですが、そうもいかず下山にかかります。剱岳の歌を唄いながら下ります。 | ダイレクト尾根、鎌尾根上部を覗きながら下ります。 大谷原の河原が良く望まれます。 |
爺岳巻道で休憩 | 美しい棒小屋沢 |
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昨日に増して今日は良い天気です。昨晩は1人布団1枚ずつで快適に眠れましたが冷小屋の予約情報では今宵は布団1枚に2人だそうです。 | 昨日から眼の下に見えた長大な美しい沢が、地図によると棒小屋沢と判りました。棒小屋沢は殺生小屋を作り、アルプス銀座の喜作新道を切り開いた小林喜作が雪崩で亡くなった場所です。 |
爺岳の下り | 剱をバックに |
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帰途爺岳の中峰か南峰に寄る提案をしようと想っていましたが、下山する時間が無くなってしまったのでカットしました。一年の11月、春の部山行のため故中村さんと途中まで偵察に行った東尾根を覗いて見たかったのです。 |
剱をバックに記念撮影です。学生時代最後の5月に剱岳の歌通りに赤谷山から大窓・小窓・三ノ窓と北方稜線を縦走した斉藤OBの思い出の地です。 |
爺岳の最後の下り | 爺岳の稜線を振り返る |
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爺岳の最後の下りです。ここを下ると鹿島槍は見えなくなります。 斉藤OBは盛んに剱に向けてシャッターを押しています。 | 爺岳を振り返ります。中峰(主峰)、北峰です。登山道は黒部側に撒いていますが、ピークの撒き部分は僅かです。 |
サヨナラ鹿島槍 | サヨナラ剱 |
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鹿島槍をズームアップしました。 でかい岳です。正面に拡がる南壁、バックの東尾根の後ろの天狗尾根、その間に隠れる荒沢奥壁、天狗尾根とキレット間には北壁があり、三方岩壁を擁する堂々たる山容です。 | 画像のサヨナラの 題名は斉藤OBです。ここから見る姿は実に見事です。映画剱岳点の記でもストーリーとは関係の無い、仙人池からの光景が出て来たのも、小窓、三の窓のこの光景が、剱の魅力を描くために必需だったのでしよう。 |
種池小屋間じか | |
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種池小屋は眼の下です。気持ちの良いポイントです。ここから下ると剱は隠れてしまいます。 | 扇沢を見下ろします。正面に真っ直ぐ伸びる針ノ木雪渓、中央に針ノ木岳、左の大きな岳は蓮華です。蓮華の名の岳は、どこも麓から見ると皆見事な岳です。 |
種池小屋 | 稜線に別れを告げる |
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種池小屋でカップヌードルの遅い昼食を注文し、いざ下山します。小屋の前には沢山の登山者たちがビールを飲みながら談笑しています。今宵は小屋は超満員でしょう。小屋から18時にタクシーを予約します。 | 稜線に別れを告げる、という気持ちは嘘で、下れども下れども何時までも稜線が見えて中々高度が下がりません。途中18時に予約したタクシーに待って貰うため斉藤OBが先行しました。秋はつるべ落としに日が暮れ、途中ヘッドランプを点灯しながら下りました。 |
9月21日(月) 白馬駅前⇒五竜テレキャビン〜地蔵の頭〜帰京 | |
予約したタクシーの運転手さんの話では、扇沢への道が終日大渋滞を起こし動かなかったとのことでした。昨夜は運転手さんに白馬駅前の宿も見つけて貰いました。食事は遅いので宿の隣りの食堂で済ませました。 朝起きてみると、白馬三山がくっきり見えたので、7月の同期会の際、雨で見えなかった遠見尾根に行く事になりました。 駅で帰りの指定券を購入しましたが、時間の関係で小遠見には行けず、地蔵の頭までにしました。 |
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テレキャビンからリフトに乗り継ぐ | 左から五竜、白岳、大黒岳、唐松岳 |
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テレキャビンからリフトに乗り地蔵の頭を目指します。この斜面は高山植物園になっていますが、6年前に比べて大分成長して来ました。 | 今日も稜線はくっきりと見えます。時間が経つにつれ、続々と家族連れが上がってきたり、五竜から下山してきます。 |
地蔵の頭 | 地蔵の頭 |
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稲吉OBによると白馬村には二つの地蔵菩薩があり、部落を守っているそうです。 | このケルンの中の地蔵が二つの内の一つだそうです。 |
9月針ノ木谷から蓮華岳、10月遠見尾根から白岳 | |
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1) 期日: 2009年9月 針ノ木谷から蓮華岳ピストン(1日) 参加者: 豊田OB(47年卒)夫妻、友人4人、計6名 2) 期日: 2009年10月 遠見尾根から白岳ピストン(1日) 参加者: 豊田OB夫妻、友人2名、計4名 |
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10月初旬の清川村でのOB会キャンプ の後、豊田OB(47年卒)から遠見尾根から日帰りで白岳をピストンして来たとのメールが、鹿島槍のカクネ里や新雪をかぶった五竜などの美しい写真とともに送られてきました。 9月中旬に41年同期で種池から鹿島槍に行きましたが、暗くなって下山し白馬の宿に泊まり、翌日余りにも好天のため五竜や鹿島槍を眺めようと神城からテレキャビンで遠見尾根に登りましたが、帰りの列車の時刻の関係上、鹿島槍や五竜が望める小遠見にも行けず、残念ながら地蔵の頭で帰ってきました。7月の同期会も雨で地蔵の頭すら行けませんでした。我々41年卒同期は40年卒の先輩の方々と共に、遠見尾根には特別な想いがありますが、まだ同期は誰もこの尾根は辿っていません。 豊田OBの何枚かの素晴らしい写真を見て、無理やりこのHPへの寄稿を依頼したのです。豊田OBは蓮華岳や遠見尾根の新たな写真とともに、 大石OB(48年卒)、新井OB(46年卒)宛てのレターの写しが寄せられました。 以下は豊田OBのレター形式の山行報告です。 |
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お元気ですか? このところ夫婦で時々山歩きをしています。 8月は家内と息子と息子の友達、計四人で富士山に行きました。五合目まで車で行き、 翌朝二時頃小屋を出発すると小屋の前は渋滞でした。五合目から懐中電灯の列が 前の会社の先輩、Tさんが穂高駅の近くに別荘を持っていて、別荘を拠点に北アの 9月はTさんと山岳部の仲間H氏夫妻、もう一人りH氏と我々夫婦、計六人で扇沢から 大沢小屋で思い出すのは「山を思えば人恋し、人を思えば山恋し」ですね。 以下続く |
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針ノ木谷から蓮華岳ピストン |
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針ノ木谷 | 針ノ木雪渓 |
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蓮華岳ピーク | |
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針ノ木小屋 |
遠見尾根から白岳ピストン | |
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冬合宿で肩から頭までの雪でスコップを使いながらラッセルをした白馬の杓子岳 ザラメ雪で滑落し、運良くピッケルストップで命拾いした春合宿の鹿島槍の東尾根。 須田と二人で行った鹿島の天狗尾根、小さなコルでビバークしていたら大雪で 新人の春合宿でバテバテになった爺ヶ岳。その時に新井さんが滑落した鹿島槍の 懐かしい山々を見ながらの登行でしたが遠見尾根から稜線に出る最後の登りに掛かる 朝8時過ぎから午後4時までのテレキャビンの営業時間に間に合せる為に、殆ど Tさんはマメに山行記を書いてくれ、メールで送付してくれます。コピーを同封します。 豊田 |
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テレキャビン終点 | |
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地蔵の頭から五竜岳 | 白馬三山 |
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小遠見 | 鹿島槍 |
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延々と続く遠見尾根 | 大遠見の登り |
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大遠見頂上 |
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鹿島槍 | |
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カクネ里 | 鹿島槍北壁 |
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西遠見頂上 | 五竜岳 |
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白岳の登り | 新雪の五竜岳 |
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白岳頂上 | 唐松岳 |
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剱 北方稜線 | 五竜岳 |
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下山途中 | 神城テレキャビン駅 |
9月上旬、八甲田山 |
メンバー: 金子OB(41年卒) 日時 : 09年9月2日(水) |
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9月初旬、岩手、青森に小旅行の途中八甲田山を目指しました。 八甲田山は15年程前に濃霧で断念した経緯もあったので、登山に家族は余り乗り気ではありませんでしたが、無理やり立案しました。 北八甲田は左から赤倉岳(1548m)、井戸岳(1550m)大岳(1584m)の似たような標高のピークが3つ並んでいますが30mだけ高い大岳が主峰です。 八甲田山は眼下に青森湾が、西には津軽平野を隔てて岩木山が望める名峰です。 |
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朝9時の始発ロープウェイに乗って山頂公園駅に着きました。山頂公園には紅葉時に錦を彩る名高い田茂萢(タモヤチ)湿原があります。 | 登山道の植物は低いオオシラビソの茂みの隣りに這松があつたり、その脇にナナカマドやムシカリが茂っていたりして変わった光景です。緯度が高いことや海に近く湿度が高い事など関係しているのでしょう。 | 駅を出てから1時間ほど登って振り返ります。指導標が湿原巡回コースの案内が主であったため、登らなくても良い展望台に上ったり、湿原を通らずに左の田茂萢岳に登ったりして大分時間をロスしてしまいました。 |
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眼下の青森湾と青森の街をズームアップし俯瞰します。手前のピークが八甲田前岳で、青森郊外からは八甲田の代表として大きく見える山です。 | 登り始めて1時間半程でようやく赤倉岳ピークに着きました。台風通過後の吹き返しの強風で帽子が飛ばされそうです。風を遮る場所がないので休まず井戸岳を目指します。 | 井戸岳の稜線の左側は噴火口に面して切れ落ちているので強風のため緊張しながら登ります。雲の中に入ったため視界が急に悪くなり、今過ぎてきた赤倉岳も隠れてしまいました。 |
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井戸岳のピークです。あと30分もあれば大岳に着きますが、無理をしてもつまらず、今宵は下北のむつまで行かなくてはならないため、ここで引き返すことにしました。 | 行きに通らなかった田茂萢湿原を横切ります。デッキの素晴らしい展望台でしばし、その美しさを堪能します。ここまで下ると無風になりましたが、背後の八甲田の稜線は全く雲に隠れてしまいました。 | 八甲田山と言えば雪中行軍の青森歩兵5連隊の大量遭難事件があります。青森5連隊の後藤伍長はここから少し先の大滝平で、このままの姿の仮死状態で発見されましたが、馬立場に銅像が記念碑となって設置されています。前岳を背にし青森連隊の屯営に向かって、銃を抱え眼をしっかりと見開いて立っています。早く屯営に遭難を知らせかったのでしょう。 |
8月下旬〜9月上旬、美ヶ原、高妻山、四阿山、霧が峰 | |
下記リポートは笠原OB(40年卒)の寄稿です。
今回は、九州大分からの日本百名山巡行をする広瀬OBのお供をし、レンタカー活用によって離れた4山を3泊で登頂できた。毎日、雨〜霧で濡れ、眺望は得られなかった。 |
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【1】8月29日 上田〜美ヶ原〜戸隠 |
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大分から空路行動する貴重な時間に、笠原が遅刻し上田で合流した。関東沖に接近しつつある台風の影響が県道62を武石峠へ上る頃から霧となっていた。 |
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美ヶ原自然保護センター。左から荻村、広瀬、笠原。センター横に駐車し、閉扉される前にと見学した。 |
美ヶ原自然保護センター内は、豊富な資料で分りやすく展示されていた。
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センターでは、美ヶ原高原の生い立ちなどが詳しく説明されていた。王ヶ頭(おうがとう)などの頂部は板状節理の発達した「輝石安山岩」や同岩の入った「凝灰角礫岩」で覆われているが、約2000万年前のグリーンタフの海中堆積の時代から現在への隆起・侵食とともに説明されていた。 |
王ヶ頭まで平坦0.1kmの地点。中部地方のほぼ中央に在って電波が広範囲に届き、頂部に平坦な広さがあるので各種の放送通信事業者が送信アンテナ(地形図上に7つ)を並べる効果的な立地である。頂上平坦部へは牛の立入を防ぐ柵を通って入ったが、周辺には牛糞が散在していた。 |
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美ヶ原高原の最高地点「王ヶ頭」2034m。 |
王ヶ頭頂上(三角点は手前側)板状節理の発達した「輝石安山岩」が散乱している。 |
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この後、武石峠から豊科IC→長野ICを通って長野市内で夕食を摂り、戸隠高原の白樺荘へ遅着。 |
王ヶ頭三角点2034.1m。 |
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【2】8月30日 戸隠〜一不動〜高妻山〜五地蔵岳東尾根〜長野駅〜菅平 |
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朝から霧雨で雨具着用。戸隠牧場を抜け、大洞沢沿いに登る。 |
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大洞沢帯岩の鎖場。辺り一帯が凝灰岩(海底で堆積した火山岩)系で滑りやすい。ハイシーズンには鎖場で渋滞も起こるようだがこの日は頂上以外では他のパーティに会わなかった。 |
不動滝鎖場。戸隠山を含むこの地域は約400万年くらい前から海底で始まった火山活動で火山岩が堆積して構成されたもので、ここの凝灰質は雨で滑りやすい。 |
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一不動避難小屋。凝灰岩が風化した土質となって樹木がうっそうと生茂っている。ここから北の五地蔵岳へ向かう右(東)側は南に続く戸隠にかけて急崖をなすが、凝灰質の風化のしやすさが影響しているのだろう。二釈迦、三文殊、四普賢と石祠を過ぎて五地蔵の台地へ出るが、雨・霧で写真撮らず。 |
十阿弥陀。五地蔵、六弥勒と仏教の名の付いた石祠を十の阿弥陀まで数えたが、後になるほど間隔が拡がって、ここから頂上までの距離がかなりあった。 |
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高妻山2352.8m、荻村、広瀬、笠原。頂部南の肩に荷を降ろし、三角点 |
六弥勒(画面左)から北(画面前方)へ別れ、東方へ下る「弥勒尾根新道」を下った。初めは樹葉の積もったふかふか路だったが、次第に根曲がり竹の急坂で滑りやすくなった。開道はされたものの非登録で地図からの消去が求められているとかで、雨の下山路としては薦められない。 |
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高妻山は、砂岩や礫岩など第三紀層を貫いて噴出したトロイデ状火山で、貫入したマグマが固結した「ひん岩(登山道の標高2180m上から現れる)」と呼ばれる岩石からなり、頂上は角閃安山岩とされる。頂上ピラミッドの急な登路の途中で、コンクリートが風化したような砂礫や数cm大の角礫を含んだ堆積岩を3人で確認した。 |
暗湿な森中の長い下りで足を取られ疲労しながら戸隠牧場降り着いた。この後、戸隠中社で蕎麦を食し、入浴し、長野駅で荻村氏と別れ、霧の立ち込める菅平へと移動した。ペンション「アウトドアロッジ自然回帰線」はユニークな宿だった。 |
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【3】8月31日 菅平〜四阿山〜菅平〜霧ガ峰 | |
四阿火山は大きな山だ。頂上は三角点2332.9mのある所より21m高く上越地域では浅間に次ぎ、高妻山より1m高い。北側が直径約3kmの深い鉢形をした爆発カルデラとなって落ちているが、カルデラ壁を構成する根子岳〜四阿山〜浦倉山から延長してカルデラ以前の山体を想像すると如何に大きかったことか。火山としての活動時期は約90万年前〜30万年前(約30万年前に最新のプリニー式噴火)
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徐々に高度をあげ、林を抜け、小四阿山1917mに至った。雨具を脱ぐが、 |
四阿山頂手前(標高2300m越)、南からの登山路を合わせる |
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四阿山頂2354m。ここでラーメンスープを暖めておにぎり美味い。 |
四阿山と根子岳の分岐。駐車場で根子岳へ向かう1パーティあったが、登山中は他に会わず。我らは天気不順にて根子岳への周遊を止め、往路を下山することにした。昨秋打矢OBと根子岳を回ったときは明るく賑やかだったが今日は霖雨のみ。 |
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一旦車で下り始めたが菅平牧場の乳牛たちを眺めて駐車場の売店へ引き返すと、女主人が「貴方がたが下って行ったので閉店しようとしていた」由。美味しい牛乳をお代わりした。この後、今日予定の車山は明日に延ばして温泉へ。プリンスホテルは清掃直後で清々しい入浴だった。国道142号から和田峠を通って霧ヶ峰のヒュッテジャベルへ投宿。オーナー心づくしの夕食を摂り、濡れ物を広げて眠りに就いた。 |
【4】9月1日 車山〜ヒュッテジャベル〜上諏訪〜横浜 | |
霧ヶ峰から美ヶ原にかけて1600〜1800mの一大草原が波浪状に展開している。かつて地元市町村の放牧地であったためか草原となり広々している。地質的基盤は標高1700mまで露出しており、霧ケ峰火山の噴出物はそれらをうすく覆っているにすぎない。高原の東縁から北縁にかけての斜面に分布する階状土は、風も強く、樹木もないような場所にあり、冬季に土壌が凍結し、強い西風が雪を吹き払い、さらに草をはぎとってしまうと階状土ができはじめる。現在も動いている「生きた地形」だそうだ。
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霧ヶ峰ロイヤルイン前に駐車して車山乗越に向かう路。右上に車山頂の |
霧ヶ峰ロイヤルイン前に駐車して車山乗越に向かう路。右上に車山頂のレドームが見える。朝霧が漂っている。 |
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背後は車山頂レドーム。気象庁が1999年に設置した施設で、直径4mの
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車山の頂上(1925m)は平坦で広い(広瀬)。帰りは西方の尾根沿いに下ったが眺望得られず。この後、ヒュッテジャベルに戻り、広瀬OBはスーツに着替え、県道40号を下り、上諏訪駅前でレンタカーを乗捨てて中央線に急ぎ乗った。 |
8月初旬 栗又OB、お孫さんの初登山・涸沢 | |
2009年 涸沢登山記録 遠藤弘樹の初めての登山を記念して、日本の山の中で最も魅力ある山のひとつ、穂高岳を目の前にできる涸沢に入り山の美しさ、魅力を堪能できる登山に挑戦する。 メンバー: リーダー 栗又功雄 サブリーダー 遠藤利隆 隊員 遠藤弘樹(8歳) |
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涸沢にて | |
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上高地にて | |
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第一日目 ―8月6日(木) |
河童橋 | 横尾山荘前 |
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本谷橋にて | |
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第二日目 −8月7日(金)− 朝から雨、弘樹は初めての雪渓を嬉々として登る。 |
涸沢槍 | |
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第三日目 ―8月8日(土)−
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7月下旬 無念の「槍ヶ岳行」 | |
松村OB(38年卒)は今夏、単独で槍、穂の縦走に挑みましたが、あいにく悪天が重なり槍は登頂しましたが、残念ながら穂高へ の縦走は断念されました。 以下は松村OBが寄稿されたリポートです。 日程 09年7月27日(月)、28日(火)、29日(水)、4日間 行程 27日、新宿〜上高地〜横尾山荘(泊) 28日、横尾〜槍ヶ岳山荘〜槍ヶ岳往復 29日、槍ヶ岳山荘〜上高地〜帰京 |
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今年こそはと、古稀を迎えた最初の単独行にと思い立って梅雨の晴れ間をあてにして出発した。予定ルートは、横尾山荘で一泊の後、槍ヶ岳(槍岳山荘泊)、キレットを経て北穂高(穂高岳山荘泊)、更に奥穂高から前穂を経て岳沢から上高地に下山であった。 しかし、悪天候で槍ヶ岳のピークを踏んだだけで敗退。 その顛末は以下の通りです: |
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雲の垂れ込める岳沢 | |
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7月27日(月) 新宿7時半発の上高地への直行バス。乗り換えの面倒もなく料金は6,000円(帰途は盛夏料金で7,000円)、便利である。 曇り空が時折晴れることはあるが、しっとりとした人気の少ない上高地である。 |
明神館 | |
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学生時代に連絡先として立ち寄ることが多く古いOBの人たちには懐かしい明神館には、なぜともなくザックを降ろしてしまう。 途中傘をさすこともあったが本降りにはならず15時15分横尾山荘着。 小屋と言うより旅館の趣の新しい建物で風呂に浸かり、2段ベッドで快適に眠る。
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ババ平の天場 | |
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7月28日(火) どうせ雨だろうからゆっくり寝ようと思っていても、それは小屋泊まりでは贅沢なことか。 強い雨が上がった6時に出発。 いつのまにか空は晴れ、明るい心躍る夏の槍沢風景になる。 足は重いが周囲の景色と花に見とれ、遥かな昔の思い出に耽り、大曲あたりまでは何とか昭文堂の地図のコースタイム通りに進む。 |
槍沢上部を望む | |
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雪渓は大きく残り、例年のことは知らないが、小屋で聞くと今年は雪が非常に多いとのこと。ルートが一気に登りになるモレーン台地に至る頃から急激に速度が落ちる。 我々が学生であった頃には、こちらを振り向いてもくれなかったであろう少女達は、今では大声でお喋りをしながら歩く壮健なご婦人となられて、バテているこちらに気遣わしげに挨拶をして下さる。 今回気づいたことではあるが、身体全体がバテるというより脚が疲労して、特に登りで急激に動きが悪くなる。 老化による身体の衰えを心配するより、脚の筋肉のトレーニングに普段から努めることが重要で、脚力の衰えは岩場や雪上の危険回避が困難になるのではとしおらしく思惟を巡らし、或いは景色に見とれ写真を撮るふりをしながら何度も立ち止まる。 |
今年は雪が多く残るといわれる槍沢 | |
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雪渓のクレバスの断面は青く澄み清冽な水が流れるのが見られる。 それにしても覆い被さるような槍の姿は圧倒的である。
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槍のピーク | |
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空は曇り小雨、風も強くなる。 山荘の手続きを済ませている間に元気も回復。 明日の天気は覚束ないのでたとえ眺望を得られなくてもとサブを背負って出かける。 風は強いがホールドも鎖もしっかりしているので山にいる嬉しさを噛みしめるように山頂に立つ。夏の槍のピークではありえないような無人の頂上からは、雲が晴れて大天井が意外に大きく、北鎌はすっぱりと、双六から三俣蓮華への稜線は伸びやかに眺められる。 明日行くべき穂高の山なみは残念ながら雲に閉ざされている。 |
槍ヶ岳山荘から | |
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山荘に戻り雨も降り始め寒くなったのでキッチンのストーブにあたりビールを飲む。同じテーブルに来た西洋人二人連れが、山荘の従業員の西洋女性に、山の状況を聞いているのがなんとなく耳に入ってくる。山の状況についてはお互いにちんぷんかんぷんの様子。年寄りの常で心配のあまり話を聞いてあげる。 お互いの自己紹介で若者はヒマラヤやペルーアンデスのトレッキング経験を持つフランス人のレミーと、登山経験の少ない韓国で働いているオーストラリア人のキャム。誘い合わせて休暇を日本で過ごす目的の一つで槍・穂高の縦走を試みている由。 穂高行きはよしとしても何処まで行き何処を下るか決めていないとのこと。山小屋には随所にハングル文字が目立つような国際化の時代で、このように気楽にワンデリングを楽しむのも今様なのだろうか。 明日は是非一緒に行動させてくれと頼まれるが、悪天候の中で奥穂までの悪場を通過することには、「集団的自衛権」を解決しないで国連軍に参加するようで気が進まない。 |
Int'l team | |
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7月29日(水) 例によって4時前から騒音で目覚める。激しい雨の音も聞こえる。 雨をついて穂高の稜線を歩くか、取りあえず南岳まで行き先の判断をすることも考えて7時過ぎまで迷う。濃いガスと沛然たる雨を眺めていると退却が一番と、時間はかかったが勇気ある決断をして槍沢を戻ることにする。 仏・豪コンビには槍のピークを踏んでからその先を慎重に決めるようアドバイスし、気になるが別れる。(週末に二人からは、槍沢を下山し古い高山を楽しんでいるとメールがあり安堵する。) |
けむる槍沢 | |
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7時20分、山荘を出発。 大曲の辺りで一瞬青空が見える。諦めて下山すると天気が好転するように感じるのは山の「マーフィーの法則」だろうか。 しかし後は終始小雨。沢の景色が幻想的に感じられる。
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五千尺ホテル前 | |
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新宿行きのバスは16:00時なので、後はのんびり行く。 明神で青い信州りんご(200円)を齧り、河童橋周辺をうろついて時間をつぶす。 地べたの土鳩を雷鳥かと聞く同年代の紳士、怒りながらたしなめるその奥方などと、写真を撮りあう。 |
7月中旬 同期会 白馬山麓 |
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メンバー 秋野、稲吉、小田、金子、小島、斉藤、杉村、沼田、宮尾、渡辺、各OB(41年卒)計10名 日時 09年7月18日(土)19日(日) コース 18日 大町山岳博物館集合〜細野丸金旅館 19日 五竜遠見アルプス平(雨天のため小遠見ハイクは中止、田淵行男記念館、穂高神社 41年卒同期会は毎年実施していますが、本年は斉藤OBが幹事となり、日程調整に務めた結果、フルメンバーが出席しました。同期が一同に会して、お互い元気なことを確認し合うのは非常に楽しいことです。席上、翌年の幹事もきまり、おおよその企画もまとまりました。 |
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埼玉・千葉組、神奈川・東京組、金沢組、列車組の4組に分かれ、それぞれ大町山岳博物館に終結しました。 | |
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善光寺にて | 賑わう善光寺 |
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子供の夏休みが始まった三連休の初日、しかも高速1000円の土曜日で、大渋滞を覚悟して出かけました。東松山ICから高速に入って大成功しましたが、上里手前から吉井の事故渋滞に巻き込まれ、1時間も徐行運転を強いられてしまいました。 | 善光寺は相変わらず老若男女で賑わっています。風格もあります。 |
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大町山岳博物館で集合 | 大町山岳博物館パンフ |
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携帯で連絡を取り合いながら、一番遅れて山岳博物館に到着しました。上野原から45kの渋滞情報が出ていた中央道組は、それほどもなかったようで順調に到着していました。金沢からの沼田OBと一年振りの再会です。 | 4年前の5月、唐松の帰途、大町駅から30分近く歩いてここまで来ましたが、あいにく月曜日の休館日で、仕方なく併設の動物園を見ました。今回は念願かなってやっと着きました。博物館は大町にあった百瀬慎太郎の「対山館」の名を彷彿するように、まさに鹿島槍をはじめ北ア連峰に対する位置にあります。 |
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五竜遠見テレキャビンアルプス平駅 | |
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夜は宿で久しぶりにあった岳友と共に、夜遅くまで酒を酌み交わしました。翌日は生憎雨でした。ダメモトで五竜遠見テレキャビンで旧法政小屋のある地点まで上がります。神代もすっかり変わり、昔春山合宿で世話になった下川さん宅もどこにあるか判りません。遠見尾根の登山道も、皆でテレキャビンから見ても、どこを通って法政小屋に登ったか判りませんでした。 |
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五竜遠見テレキャビンアルプス平駅 | 五竜遠見テレキャビンアルプス平駅 |
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テレキャビンの終点はアルプス平と言います。時々強い雨が降ってきます。 | 雲が時々切れて、八方の兎平方面が望まれます。 |
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アルプス平 | 高山植物園 |
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せめて地蔵の頭までと思いますが、強い雨でそれも諦めます。 | 6年前に来た時は、植えたばかりの高山植物も、大分拡がってきました。数年経つと見事になるでしょう。 |
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テレキャビン乗場 | 再会を約して沼田、秋野OBの金沢組と別れる |
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諦めてテレキャビンで下ります。ここにはモーグルのジャンプの練習場があり、若者が次々とジャンプしてプールの中に飛び込んで行きます。 | ここで金沢に帰る沼田OBと同乗して行く秋野OBと再会を約してお別れです。 |
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田淵行男記念館 | 田淵行男記念館パンフ |
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穂高の田淵行男記念館に着きました。2年前5月の燕行の際、小田、稲吉、杉村OBは訪れていますが、念願がかないました。 | 田淵行男は高山蝶の研究家ですが、山の写真家でもあります。 |
田淵行男記念館パンフより | 田淵行男記念館パンフより |
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黒斑山の途中から撮影した浅間山です。浅間の縞模様の写真のルーツです。 | この光りに満ちた山稜は素晴らしいの一語です。 |
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穂高駅前の蕎麦屋 | 穂高駅前の蕎麦屋 |
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善光寺門前での蕎麦の昼食が大失敗したので、小田OBがぜひと薦める店に行きました。 | 馬刺しを摘みながら、うまい蕎麦で満足しました。 |
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穂高神社 | 穂高神社社殿 |
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穂高神社本宮です。奥宮は明神池、嶺宮は奥穂高山頂にあります。 | 穂高見命を御祭神と仰ぐ穂高神社は安曇氏が祀る神です。安曇氏は元々福岡志賀島を本拠とした海人族でしたが、信濃に入植し安曇野を開発しました。 |
穂高神社御船 | 穂高神社神馬像 |
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秋には明神池で御船神事が行われ、安曇野でも船形の山車を使用して御船祭りが盛大に開かれます。 | 境内を通りかかると馬が祀ってありました。つい先ほど馬刺しを食べたばかりなので、気がとがめます。 |
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7月初旬 越後駒、皇海山、平ヶ岳、 | |
梅雨の真っ最中に本橋、広瀬OB(36年卒)、笠原OB(40年卒・平ヶ岳は不参加)の方々が秋田駒、皇海山、平ヶ岳の三つの名山をたった4日間で踏破されました。いづれの山は交通機関のアプローチが悪く行きにくい山ですが、レンタカーを使用して短時間に移動するコース設定をされました。。 |
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メンバー 本橋OB、広瀬OB(36年卒)、笠原OB(40年卒) 笠原OBは急用にて平ヶ岳は不参加になりました。 日時 2009年7月2日(木)3日(金)4日(土)5日(日) 4日間 行程 越後駒:7月2日 東京〜越後湯沢(レンタカー)〜枝折峠〜小倉山〜駒ノ小屋(泊) 3日 駒ノ小屋〜越後駒ヶ岳往復〜枝折峠(レンタカー)〜大湯温泉〜小出IC〜沼田IC〜吹割の滝〜 老神温泉(泊) 皇海山: 4日 老神温泉(レンタカー)〜皇海橋〜不動沢のコル〜皇海山ピーク〜皇海橋(レンタカー)〜 越後湯沢〜銀山平・伝之助小屋(泊) 平ヶ岳: 5日 銀山平・伝之助小屋(バス)〜中の岐林道登山口〜玉子石〜平ヶ岳ピーク〜中の岐林道登山口(バス) 〜銀山平・伝之助小屋(レンタカー)〜越後湯沢〜東京 以下秋田駒、皇海山は笠原OBの寄稿、平ヶ岳は本橋OBの寄稿です。 |
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秋田駒ケ岳 7月2日、3日 | |
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枝折大明神 | |
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7月2日(木)雨〜曇り 東京発6時の新幹線を越後湯沢でレンタカーに乗り継ぎ枝折峠に駐車して雨の中を出発した(9:50)。明神峠の祠で休憩。ここは、奥只見の銀山平と下界を結ぶ「銀の道」が越す歴史上の枝折峠だった。元禄4年には上田銀山詰夫の1万余と本陣、会所、番所詰諸役人を合算すると、優に2万5〜6千人の堂々たる鉱山町だったとされたことが伝之助小屋のホームページに詳しい。 |
百草の池 | 越後駒山頂残雪 |
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タオルの汗を絞りつつ道行山、小倉山、百草の池を過ぎ駒の小屋に着(16:00)。 | 小屋荷を降ろし雪道をキックステップで越後(魚沼)駒ケ岳(2003m)に登った(16:35)。頂は霧に包まれ暗かった。 |
駒ノ小屋から駒ケ岳を望む | |
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小屋は2001年に改築されたが気象観測は今もやっているのだろうか。 夕食後、駒の小屋前で見上げる山頂部は雪が残り、水が豊富に引かれていた。夜は朧月も見えたが驟雨もあり不安定。 |
兎岳、中ノ岳、前駒を望む | 下山路、遠方に未丈岳を望む |
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7月3日曇り時々薄日さすが湿っぽい。梅雨空にいっとき見えた中ノ岳、兎岳へ続く稜線や平ヶ岳を望んで、駒の小屋を出発(5:45)。 |
復路の向こうに未丈が岳があり、遥かに飯豊連峰が霞んで見えた。 |
前駒から見る滝バ上部の氷河周辺地形ナ沢 | 滝バナ沢のグライド地形 |
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前駒から氷河周辺地形の露岩斜面を下る。 | その正面には滝バナ沢の対岸にグライド地形などの雪食地形が凄まじかった。 |
百草ノ池付近から越後駒を振り返る | |
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道行山を過ぎて振り返ると駒ヶ岳が大きく、地質は古成層とそれを貫く深成岩から構成され、壮年期の侵食を受けつつある姿が興味深い。枝折峠に帰着し(10:25)雨具を脱いだ。峠からR352の下りは午前中規制だったかもしれないが表示なく、対向車に合わず下った。大湯温泉でサッパリし、湯之谷で蕎麦を美味しく食べ、一路次の目的地へ向かった。 |
吹割瀑布 | |
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小出IC,沼田ICを通って日本ロマンチック街道を走り、吹割ノ滝(天然記念物)を見物。水量が少なめに見えたが、片品川に集まった水が凝灰岩や花崗岩からなる広い河床上を流れ落ちる特異な地形は、東洋のナイアガラと言われる素晴らしさだった。その下流に位置する老神温泉の山楽荘を宿とした。 |
皇海山 7月4日 | |
登山口 | |
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7月4日(土) 曇り(雲量10) 栗原川林道が開放されアプローチの時間が短縮されたが、狭く折れ曲がった道のりは長く、轍の泥水を跳ねながら山は深かった。皇海橋の前後に駐車場があり、トイレの整備された登山口で濡れ仕度をして出発(8:10)。 |
皇海山登路 | |
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人手のあまり入っていない獣道入り乱れた自然味溢れる登路を愉しみつつ不動沢のコルに着いた(10:10)。暗い茂みに足場を探しながら湿気に汗して皇海山(2144m)に登頂(11:25)した。
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皇海山頂上 | |
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皇海山は比高約800mの山体をもつ火山で、噴火活動は約100万年前頃といわれる。南に位置する鋸山火山体の形成後、溶岩と火砕流を噴出させた。(注1)二等三角点の眺望は山霧と樹木で得られず往路を下山。
(注1)日曜の地学H「栃木の自然をたずねて」, 築地書館 |
鋸岳 | |
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途中、コルから曇天の下に鋸岳が望めた。皇海橋へ戻り(14:05)車体に泥を跳ねながら下った。車は、翌日の目的地「平ヶ岳」へ向けて国境の長いトンネルを再び抜けて走った。急用の出来た笠原を越後湯沢に降ろし、二人は銀山平の伝之助小屋へ。 |
平ヶ岳 7月5日 | |
本橋OB・広瀬OB 中の岐林道登山口 5:25 |
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玉子石 | |
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中高年の登山客は皆時間に正確だ。4時出発の5分前には全員乗車していた。352号線を奥只見湖に沿って東に進む。 曲がりくねった狭い道を30分で中の岐林道に入る。荒れた林道でバスが跳ね上がる。1時間30分で登山口に着く。13時に帰りのバスが出発するので遅れないよう注意される。暫く河原の石の上を行き、仮設の木橋を渡り樹林の中のぬかるんだ滑りやすい道を登る。30分で大きな五葉松の点在する見晴らしの良い場所に出る。ここで一休み。玉子石の辺りから派生している五葉尾根を登る。水で抉られた石混じりの赤土の道が続く。1時間半ほどで右手の景観が開けてくる。ベニサラサドウダン、シャクナゲの花が美しい。
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平ヶ岳頂上 | |
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頂上部に近くなるに従い多少傾斜も緩くなり、笹を切り払い付けられた道を行く。やがて木道の末端に出る。雪を残した名の通り平らな平ケ岳が目の前に広がる。玉子石に寄ってみる。自然の造形の不思議に驚くばかりだ。湿原を眺め、軽く食事をしながら一休みする。木道を行くと雪渓に出会う。宿の主人からテント場へ通じる木道は雪に埋もれ危険なので、姫の池経由の木道を通るよう指示されたのでそちらを行く。9時30分平ケ岳頂上に着く。今回計画した越後駒ケ岳、平ケ岳、皇海山全てを登ることが出来広瀬も満足そうだ。頂上付近の木道は食事中の登山者で満員のため、少し先に行って休む。越後駒ケ岳、中の岳方面は雲が懸かり良く見えないが、兎岳、巻機山、至仏山、景鶴山、与作岳、燧岳が目の前に広がっている。東の方の山は同定できないが、会津駒ヶ岳方面であろう。北には末丈ヶ岳、浅草岳、守門岳などの山々だ。 |
木道 | |
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6月初旬 穂高 | |
参加者 稲吉、斎藤(雄)、杉村、金子OB(41年卒)、計4名 日時 6月3日(水)〜6日(日) 場所 涸沢〜穂高 行程 3日、新宿〜上高地〜横尾山荘(泊) 4日、横尾山荘〜涸沢ヒユッテ(泊) 5日、小豆沢〜穂高小屋往復、涸沢ヒユッテ(泊)、雨のため奥穂は取りやめ 6日、涸沢〜上高地〜帰京 |
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5月連休の山行は、メンバーどうしの都合で予定できなかったため、その代りということで6月初旬の穂高は早くから決定していました。 3年前この時期、西穂独標から見た残雪の穂高の光景が眼に焼きついていて、新緑と残雪、これに輝く太陽が加わった雄大な穂高を味わおうとやってきました。 結果、新緑と残雪は大いに味わうことができましたが、予報通り輝く太陽には恵まれませんでした。けれどそれにも増しての収穫は、この広いカールの中、登頂しているのは我々だけで独り占めし静寂の穂高を存分に味合うことができたことです。 これは43年前の4年の秋、広いカールの中天幕がたった1張りで、静寂の穂高を独占し新雪の岩登りを楽しんだ最後の部山行以来でした。 |
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涸沢ヒュッテの小林オーナーと故早川OBが親交があった関係で、昨年4月末に泊まった時は大変お世話になりました。今回は特にフロントのYOSIKOさんにお世話になりました。プロフィールは涸沢ヒュッテのHPのkoyaban、おわん娘に掲載されています。 山の会の方々が涸沢ヒュッテに行かれる際は、ぜひYOSIKOさんをお訪ねください。 |
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6月3日 上高地〜横尾 |
河童橋より | 明神を過ぎて | |
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残雪の穂高にやってきました。雪は5月に比べると少ないですが、 まだ充分谷筋を埋めています。 |
バス停でゆっくりと昼食を採り、横尾に向けて歩き出します。ウイークディ の真ん中で、行き交う人も少なく静かな路です。 | |
新緑の路 | 静かな徳沢園 | |
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新緑を迎えた徳沢への路です。新緑も昔に比べると1週間早いのでは ないかと想います。目の下は二輪草の群落です。 |
登山者は我々だけで、静かな徳沢です。本当は徳沢園に宿泊したかったのですが、横尾まで行っておくと、翌日の涸沢までが楽なので、残念ながら諦めました。徳沢園は食事はおいしくお風呂もあり、何よりも赤々と燃える暖炉が魅力です。 | |
奥又を望む | 横尾へ河原路を歩く | |
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徳沢を過ぎると奥又が正面に眺められます。何時通っても楽しい路です。 | 途中から梓川河原の工事道路を通ります。この河原を通ると、広い河原を一直線に進んで荷上げした冬山を思い出します。 | |
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横尾山荘出発 | 路辺に咲く山紫陽花に似たムシカリの白い花 | |
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横尾山荘は改築されて、お風呂もあり清潔な宿でした。宿泊客は3組 だけで、涸沢方面に向かうのは我々だけです。 昔から横尾は不時の幕営や小屋泊まりでしたが、今回は初めて予定 して宿泊しました。横尾そのものの場所は街道筋の辻の印象があり ます。 |
すっかり山紫陽花と想っていたこの白い花が、帰宅して涸沢ヒュッテのHPを見たらムシカリ(虫狩)という低木と判りました。紫陽花にしては背が高いし、家の山紫陽花もようやく咲き始めたのに変だと思いました。この樹は秋になるとガマズミに似た真っ赤な実を付ける樹と判りました。 | |
本谷橋・新刊雑誌の撮影 | 涸沢へは夏道を行く | |
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朝、横尾を出てくると本谷橋まで、あっという間に着いてしまいます。 ここで撮影風景に出会い時間があるのでゆっくりと眺めていました。 撮影は学研の新雑誌「オクガイ」の特集ページだそうです。夏の雑誌 なので、気温が高くないのにTシャツ姿で平気です。若い子は元気です。 左の男性はカメラマンで、コピーライターは隠れています。 |
5月と違って、本谷橋からは夏道を辿ります。涸沢ヒュッテのHPを見ると定期的に道を切っているそうです。雪解けで少しずつルートも変化するた めに、雪を切った道づくりは大変です。登りはルートが良く見えず、外さないで歩くことが第1でしたが、下りは登山者が大勢登ってきてルートが明瞭になったため、ナナカマドを踏まないように大きく避けて下りました。 | |
ここから沢を歩く | 涸沢ヒュッテに到着 | |
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ここから沢中央を登るルートとなります。登山者が少なくトレースは 明瞭ではありませんが、どこを歩いても差支えがありません。 |
涸沢ヒュッテに到着しました。いつも「ようやく着いたと」言う感じを持ちますが、今回は「ようやく」という言葉が外れました。ゆっくり登っても横尾からだと昼までには着きます。 | |
早速昼食のラーメンを食べる | 豪華な夕食 | |
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ヒュッテが見えてからこのラーメンが頭にちらついていて、着くと直ぐ 注文しました。相変わらずおいしく汁の一滴も残さず飲みました。 |
静かな涸沢ヒュッテです。夕食はこのように豪華です。うなぎまで付いていて、更にはおいしいりんごもデザートに付いています。翌晩もおいしいトンカツのメニューでした。 | |
狸岩に再会 | 見事な画像 | |
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北尾根6峰の狸岩と再会です。昔は何も想わなかったのですが、 体形が似てきたのでしょうか40代の頃から我が分身と想うようになり ました。 |
ヒュッテのロビーの壁に新聞のコピーが貼ってありました。世の中凄いカメラマンがいたもので、満月の夜絶妙なアングルで撮影しています。 | |
6月5日 奥穂ピストン | ||
冴えない天気の中、小豆沢目がけていざ出発 | 急登で直ぐ汗をかく | |
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この日は予報は午後から雨でした。行けるところまで行こうと奥穂に 向けて出発です。ルートは左の小豆沢を詰めて途中からザイテンに 上がり白出のコルに登ります。他パーティの後続を狙いましたが、 テント組のパーティは誰も登りません。 |
登り始めると案の定しばらく登山者は登っていないようで、トレースは不明瞭で、ザイテンの末端目がけてダイレクトに登ります。急なため直ぐ汗をかきアウターを脱ぎます。 | |
15分ずつトップを交代する | 広いカールで登頂しているのは我々だけ | |
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かすかなトレースをたどりますが、すぐに判らなくなります。湿気の 多い雪面のため、蹴りこんでステップを切りながら登るため15分 ずつトップを交代して登ります。 |
5、6のコルよりもはるかに高く登って来ました。後続は1パーティいましたが途中引き返したようで姿は見えなくなりました。もちろん北穂沢にも登山者はいないためこの広いカールで登頂しているのは我々だけです。ザイテンに取り付き地点を捜しましたがシェルンドが出来そうなため、もう少し上から取り付くことにしました。 | |
小豆沢のかなり上部からザイテンに出る | 上部はガスに覆われ見通せない | |
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かなり上部でザイテンに上がりました。ようやく腰をおろして休めます。 ここまで以外に時間がかかりました。 |
このコルから上はガスで見えません。アイゼンをガリガリ言わせながら岩稜を登り、それが終わると胸を突く急な雪稜が続きます。その繰り返しでザイテンを下降に使うのは消耗を強いられることが判りました。 | |
ガスの中急に穂高小屋に出る | 視界が全くないため奥穂高は断念する | |
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濃いガスと霧雨の中、コルの標識が見えたと思ったら、突然眼の前に 穂高小屋が現れました。登山者は誰もおらずひっそりとしていました。 |
熱いラーメンで息を吹き返しました。前夜涸沢ヒュッテで弁当を注文したら弁当は冷たいので、穂高小屋で暖かいものを食べた方が良いですよ、とアドバイスを貰ったおかげで小雨混じりのガスの中、暖かい昼食にありつけました。 | |
急な小豆沢をダイレクトに下る | 厚い雲に覆われた北尾根 | |
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穂高小屋で小豆沢の状況を尋ねた結果、ザイテンを下らず予定通り 小豆沢を下ることにしました。トレースは薄くあります。下り口は急なため カニ歩きで大きなステップを切りながら下ります。 |
4人が下るとステップはまるで階段のようになり、明日以降登山者は随分楽だろうなと想います。小豆沢を中腰で1歩1歩ステップを刻みながら慎重に下っていると、若き時代、吊尾根直下からグリセードで滑っていた時を思い出し、随分差が出たものだと想います。 | |
危険地帯を通過 | 涸沢ヒュッテに到着 | |
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予報通り本格的に小雨が振り出してきました。雨具を着ると暑いため、 着用せずに下ります。トレーニング不足のため脚がガクガクです。 |
小豆沢は北穂沢に比べるとやや傾斜は緩いように感じます。5月と比べると雪が湿気を含んでいるため、滑落しても尻餅ていどで止まるため気が楽でした。小豆沢を振り返ると予報通り厚い雨雲に覆われ、涸沢でも本格的な雨になりました。 | |
6月6日 下山 | ||
快晴の奥穂 | 快晴の北穂 | |
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翌日、予報に反して快晴です。前日まで天幕泊の2人パーティの若い 人と話していましたが、残雪の穂高に初めて来て悪天でがっかりして いましたが、これで来た甲斐がありました。小豆沢に3パーティが向か っています。前日大きなバケツを掘っておいたので皆楽に上がれるで しょう。 |
北穂沢を見るとゴルジュに向かって2パーティが見えます。羨ましいです。今日は皆残雪の穂高を満喫することでしょう。 | |
冒険スキーヤーパーティの出発 | いつもの記念写真 | |
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昨晩同宿した若い男女のスキーヤーの一団が出発します。リーダーの 人に話しを伺ったら、全員で奥穂の直登ルンゼを滑るそうです。驚きで 滑るシーンを見られないのが残念です。全員指導員レベルとのことでした。 スキーといえば20代最後の年の11月、この穂高で山行を中断したの ですが、涸沢ヒュッテで1人のスキーヤーと同宿になり話を聞くと滝谷の C沢を滑るとのことで驚きました。当時冒険スキーヤーのはしりでした。 |
さて名残惜しい涸沢を後にします。ヒュッテ前でいつものように記念写真です。 次は何時来られるでしょうか。 | |
名残尽きない穂高 | ここから見えなくなる | |
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少し下ると振り返り、また下ると振り返る名残尽きない穂高です。 まして快晴の穂高ですからなおさらです。 |
この先を曲がると穂高は見えなくなります。ナナカマドが顔を出したこの 残雪の谷筋の光景が好きになりました。 | |
フランス人旅行者と別れる | 新緑が急に芽吹いた横尾で | |
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涸沢天場で一人泊まっていたコルシカ生まれのフランス人女性です。 ネパールからやってきて、日本からボリビアに行く予定だそうです。 涸沢から下って槍沢に行き槍を登るそうです。前日から斉藤OBの慣 れた英語を初めて聞きました。 |
本谷橋に近づく頃から、新緑が急に芽吹き始め風景が変わりました。屏風も岩小屋からの横尾の河原も。今まで見たことの無いくらい、美しい緑で覆われました。 本谷橋で食べた杉村OB持参の夏みかんの缶詰の味が舌に残っている中で、皆の持参した残食料を美味しくいただきました。 |
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相変わらず美しい徳沢 | うっとりするほど美しい新緑の路 | |
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新緑の夢のような徳沢園です。小島OBは特別でしょうが、ここで幕営 して蝶や奥又、奥穂など登った学生時代の山岳実枝が懐かしく感じます。 |
徳沢を過ぎると道がざわついて来ました。美しい新緑を味わいながらも、ダレル恐れがあるため足早に下ります。 | |
満開を迎えた明神の小梨 | ウエストン祭の上高地 | |
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明神館の前の満開の小梨にカメラマンが群がっています。よく考えて みたら小梨という花木は無く、調べて見たらズミ(酢実)のことで、 小梨は長野地方で使われている名称でした。また一つ知りました。 |
6月最初の土日はウェストン祭です。すっかり忘れていました。明神からは上高地日帰りツアーのせわしない観光客が多く、山の論理が通じない喧騒かつ俗な世界に変わりました。 |
6月初旬 飯豊連峰の展望台 二王子岳へ |
越後平野北部の新発田の背後にそびえるニ王子岳(標高1420m)は飯豊連峰の越後側の前衛に位置しています。 残雪の素晴らしい季節に山行を行った恩田OBの寄稿です。 メンバー 金子(弘)OB、恩田OB(37年卒)計2名 日時 2009年6月1日(月)〜3日(水) 行程 6月1日 東京・諏訪〜新発田 2日 新発田〜ニ王子岳往復〜月岡温泉 3日 月岡温泉〜帰郷 金子(弘)OBと現役時代の「こころのふるさと・飯豊山」を眺めようと出かけた小さな山旅でした。(恩田OB記) |
ニ王子岳山頂からの飯豊連峰全容 |
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6月1日(月) 上越新幹線車中で金子(弘)OBと合流、新発田へ。新発田ニューホテルプラザ泊 |
6月2日(火) ニ王子岳往復、 下山後月岡温泉へ |
ニ王子神社が基点 | 木漏れ日の中を登る |
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独標(定高山)積雪標柱の目盛りは6mまでついていました。 | 雪田が現れる |
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「アブラコボシ」の急登を終えて・・・金子(弘)OB | 「アブラコボシ」の急登を終えて・・・恩田OB |
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ニ王子岳頂稜を確認 | ヤシオツツジ越しに飯豊山が現れる |
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山頂直下の雪田からの飯豊連山 | |
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山頂の「青春の鐘」 | 飯豊をバックに記念写真 |
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山頂からの飯豊連峰 大日岳は大きいです。中央最奥に、小さく飯豊本山があります。 | |
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出迎えてくれた花たち フタリシズカ | シラネアオイ |
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コブシ | オオカメノキ |
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ショウジョウバカマ | イワカガミ |
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6月3日(水) 月岡温泉「ホテル杉本」 | 朝寝、朝酒、朝湯を楽しんで帰路へ |
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5月初旬 白毛門と虹芝寮 | |
日時 09年5月1日(金)〜3日(日) 参加者 打矢OB(37年卒)、笠原OB(40年卒)計2名 場所 白毛門、虹芝寮(成蹊大学山岳部寮) 行程 5月1日 東京〜白毛門登山口 2日 白毛門ピストン〜虹芝寮 3日 虹芝寮〜帰京 以下笠原OBの寄稿です。 |
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5/1(金)23:30上越の白毛門登山口駐車場着泊。同乗の打矢OBの長男(成蹊大山岳部OB)と同着の柿沼・西田氏(同OB)の3名はそのまま暗夜の虹芝寮へ向かいました。 |
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5/2(土)快晴、打矢OBは荷物満載の車中泊で睡眠不足。 | 登山口(標高690m)にて15分ロスタイムの後、6:00登山開始。 | |
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天神平にスキーの影 | |
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標高1000m辺りから雪上トレースも出現。 | 松ノ木沢ノ頭(1484m)上で脚力不足と疲れを感じ、荷物の一部をデポ。 | |
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雪上トラバースを越え、踏み跡明確でアイゼン着用せず。 |
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白毛門(1720m)頂上着11:10。 陽光燦々、四周360度上等の眺め。西は谷川岳東面の岸壁群が雪を纏って岩こごしい。苗場山など越後の山並みから、北への稜線もくっきりと笠ヶ岳の避難小屋も望見。越後三山方面から平ガ岳、至仏山と武尊山の間に燧ヶ岳、ただし、日光白根山から赤城山、榛名山にかけては南方の日差しに煙って見えず。日差し暖か昼寝。 |
下山開始12:00→芝倉沢のスキーから戻っている筈の長男達に向けて無線コールするが交信できず | |
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登山口帰着14:55。 |
長男と柿沼両氏(背負子に薪の丸太大荷)の迎えを受けて4名で湯檜曽川沿いに虹芝寮(825m)へ。 |
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山の歌に馴染む虹芝寮では、成蹊高校山岳部OBからの流れをくむメンバー(小学生〜78歳)に加わり13名となった。子供と屋根に上がり堅炭岩のシルエットなどを眺める。清水トンネル開通の翌年に建ち、70周年を過ぎた小屋を温故し、谷川岳開拓期に想いを巡らし、岩魚料理と蕗の薹、イタドリの芽などの山菜を卓上で揚げながら話の盛り上がった豪華な夕食に与った。 |
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5/3(日)打矢さんの蕎麦の玄人料理に山菜の天ぷらなどを載せて賞味。 |
虹芝寮を後に、打矢親子と湯檜曽川沿いに車へ戻り、群馬県嬬恋村へ。車坂峠への道が雪で折り返すハプニングの後、鹿沢温泉(雪山賛歌作詞の地)経由、地蔵峠を越えて、小諸ICから上信越自動車道。途中渋滞の後帰京。最寄駅から25分の丘陵を登って帰宅した。 |
5月初旬 春スキー(鳥海山・月山)と映画「おくりびと」 | |
09年4月末から5月初旬にかけて鈴木(明)OB(40年卒)の蔵王から鳥海、月山の紀行です。酒田が故郷の鈴木(明)OBはアカデミー賞作品の映画「おくりびと」の鳥海山麓のロケ地も訪れました。以下は鈴木(明)OBの寄稿です。 | |
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蔵王 | |
旅の途中で 2009年春はスキーを担いで東北の山に行こうと決めていた。新緑の山々は素晴らしい光景を提供して くれ る。 テレビの天気予報が連休の前半4月30日から5月2日までの晴天を告げていた。4月30日には蔵王の 刈田岳からお釜をのぞいた。夏になると緑色に輝くお釜はまだ冬化粧で白く凍っていた。冬場スキーヤーの多い蔵王ももうスキーヤーは見えず観光客が開通したばかりの蔵王エコーラインを車で 登りここ刈田岳に上がってきていた。
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凍った蔵王お釜 | 刈田岳山頂で |
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鳥海山 | |
5月1日に基地となる山形県酒田市を7時に出発して鳥海山を目指した。吹浦から鳥海 9時少し前に道路管理者の車が来て、鉾立てまでの状態を見に行った。そして丁度9時に 我々が登っていったときには、鉾立の手前の待避所には車が既に止まっていた。鉾立で車を
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鉾立て駐車場でスキーの準備 |
鉾立て駐車場でスキーの準備 |
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この日は単独なので十分注意して登ることにする。鉾立から左手に稲倉岳の岩壁を見ながら夏道をたどる。踏み後もありルートはわかりやすい。
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稲倉岳の岩壁 |
目の前の踏み跡 |
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稜線に出たのが11時45分。ここからは頂上を見ながら、お浜小屋に向けて歩き続け、12時近くに小屋に着く。 小屋は屋根まで雪につかり、北側の一部がやっと顔を出していた。 風を避けながら防寒のヤッケをつけ、先着者に挨拶をする。寒い中で写真を撮ってもらい、スキーをつけて下山にかかった。
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稜線から望む頂上 | お浜小屋にて稲倉岳を背に下山準備中の他パーテー |
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お浜小屋(屋根だけが雪の上に出ている) | 頂上を背に記念写真 |
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下山コース |
目の前に広がる大斜面 |
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夏道にて、右手に稲倉岳が見える。 | |
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強い風に雪がしまっており目の前の大斜面を独り占めする
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道路を登り返すのもくたびれており、車で迎えに来てもらった。基地酒田に戻る途中で「二の滝口」に向かい滝見物。ぶなの木の緑が美しい。 |
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二の滝 | ぶなの木の新緑 |
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月山 | |
晴天が確実に続くのは5月2日までと天気予報が告げていた。昨日の鳥海山に続いて今日は月山に 小屋前のロープ塔に乗りリフト下駅に向かう。リフト下駅で回数券を購入月山ペアリフトに乗りリフト上駅に着く。 |
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同行の仁志君 | 本人 |
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休憩中の同行者 | 牛首の斜面が下に見える。 |
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頂上直下でスキーとザックをデポして空身で頂上に向かう。13時頂上着、写真を撮り周囲の状況を眺めて下り始める。
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頂上で |
頂上直下の斜面 |
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大斜面を滑る同行者 | 大斜面での小生 |
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帰り道はまだ遠い | |
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途中2箇所でトラバース気味に方向変更しながらリフト上駅に 昨日の鳥海山と月山とを比べると、鳥海山のほうはリフトが |
映画「おくりびと」について | |
米国でアカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」を見てからしばらく時間が経過したが、 はじめに寄ったのは主人公の本木雅彦さんが鳥海山の麓でチェロを弾く場面になった場所で
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主人公に代わって | 鳥海山が遮られずに見られます。 |
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酒田市内では主人公がモデルになって納棺の手引書を撮影した「港座」。日和山に続く石畳の道に それからNKエージェントのモデルになった旧料亭「小幡」などを見た。料亭「小幡」は現在は中 に入ることも可能で主人公本木雅彦さんが社長山崎務さんと面接をした部屋などが公開されていた。 この中で舞台装置の設計図が展示されていたが、几帳面に書かれた図面が興味もたれた。 |
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おくりびと港座 |
石畳の道 |
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NKエージェントの前で |
舞台装置の図面 |
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この文章を書きながら映画「おくりびと」について参考になるホームページを見た。 今回の山スキーに行く前に見ていればよかった。 |
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4月中旬大台ケ原山 | |
日時 09年4月12日(日)〜14日(水) 参加者 打矢OB(37年卒)、笠原OB(40年卒) 計2名 場所 大台ケ原山 行程 12日、奈良からアプローチ、入之波、 13日、白倉又谷出合登山開始〜日出ヶ岳〜洞川温泉 14日、洞川温泉〜奈良、京都、帰京 以下笠原OBの寄稿です。 |
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4月12日 吉野川音無川の桜 | |
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夜行バスを奈良でレンタカーに乗換えて現地入りました。吉野山桜見物の後大峰山系へ入る計画でしたが、吉野山の交通渋滞甚だしいことと八経ヶ岳アプローチの林道が未だ閉鎖中(時期尚早)だったので順序を変えて大台ケ原へ向かいました。 R169を南下しましたが、大台ケ原ドライブウェイも閉鎖中(時期尚早)とて大迫貯水池から入之波に入り民宿に泊まりました。 |
4月13日 大台辻 | 日出ヶ岳を望む |
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本沢川を進み、筏場を過ぎ、白倉又谷出合(標高470m)で駐車。5:30登山開始。沢沿い1時間後の吊橋から登り、「立入禁止」表示あり。斜面崩壊、高巻きなど不安定箇所多数、大台辻(1200m)の平地で一休み。 |
踏跡を見失う箇所や巻道が続き、日出ヶ岳を望みます。 |
川上辻 | 日出ヶ岳頂上 |
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川上辻(1530m)からドライブウェイに出て、舗道をストック2本を使い急ぎました。 | 大台荘の広い駐車場に至ると車多数在り。出会った集団は環境庁の役人。「登山禁止のところを登ってきましたね、ドライブウェイも歩行禁止ですよ。まあ、大目に見ておきましょう。」と、お役人様。大台ケ原の緩い歩道を辿り13:00に日出ヶ岳頂に着きました。 |
展望台 | 倒木 |
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山頂展望台から手を伸ばせば1700mに届きます。 |
大峰山系を望遠できましたが、天気は徐々に曇り始め下山開始。登りで見失った踏跡が倒木の蔭に在りました。 |
高巻 | 本沢川 |
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高巻を再度通過。豪快な本沢川沿いは長い道のりでした。 | コースタイム12時間と標高差は過度に充実し、膝裏が腱鞘炎的疲労。駐車場帰着は日暮れの18時。八経ヶ岳へ向けて弥山への直登ルートに挑むべく、吉野山・地蔵峠・川合経由で洞川温泉へ投宿21時。 |
4月14日 | |
朝から雨、午後は悪天の予報。八経ヶ岳への鉄山のヤブでは難儀するので登山中止とし、奈良・京都経由で帰宅しました。 | 14日 |
5月初旬 立山三山縦走 | ||
09年4月30日から5月2日にかけて実施した斎藤(雄)0B(41年卒)の雪の立山の紀行です。山麓までは 得意のバイクを使いました。以下斎藤(雄)OBの寄稿です。 |
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4月30日 雷鳥荘まで | ||
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剱岳北方稜線 |
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朝7時に川越の家を出て、関越から信越道に入り、長野を越えると左手に妙高が見えてきます。天気が良くて真っ白な妙高が間近に見えます。北陸道に入り、途中のSAで昼食をとり、左に毛勝・猫又から剱岳に続く稜線を見ながら走り、午後1時に立山で高速を降りました。高速を降りたところに駐車場があり、ここにバイクを置いて、しばらく剱岳に向かって歩き、北方稜線・剱岳の写真を撮りました。越中側からみる剱岳はやはり心躍るものです。大窓・小窓・三の窓が呼んでいます。大学4年の5月に北方稜線を登ったことを誇らしく思い出しながら、しばらく見とれていました。 | |
室堂への雪のトンネル |
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2時に立山駅に着き、駅前駐車場にバイクを置いて、着替えして、ケーブルに乗りました。3時30分のケーブルを予定していたので、1時間詰めることが出来ました。美女平でバスに乗り、約1時間、雪中の道を走り続けると、室堂に着きます。バスからは剱岳や雪のトンネルを見ることが出来ました。 | |
剱岳早月尾根 |
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室堂からミクリガ池に向かうと、前方に、剱岳頂上に連なる早月尾根が見えてきます。雪のついた剱岳 は、どうも迫力に欠けると3年前の5月に感じた印象を思いかえしました。室堂から20分ぐらい下り坂をゆくと、ミクリガ池山荘に出て、山荘を右に巻くと間もなく、雷鳥荘が出てきます。雷鳥荘に着く直前に上り坂があり、意外なアルバイトです。左手に奥大日岳が見えるのですが、今年は余り雪庇が出ていません。雷鳥荘でチェックイン後、大日岳を見ながら温泉に入りましたが、これは雷鳥荘の提供する極楽です。夕食後、夕暮れの大日岳、立山、雷鳥沢の写真を撮りました。雷鳥沢の天場にはかなりの数のテントがありましたが、登山ではなく山スキーが目的のようです。 | |
奥大日岳 | 雷鳥沢 | |
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連休の中休みで、雷鳥荘にはお客もあまりおらず、大部屋ではありましたが、静かな一晩が過ごせました。 | ||
5月1日 立山三山縦走 | ||
高気圧は移動性というより帯状のようで、あと数日好天が続くようです。朝、靄が薄く空を覆っていましたが、日本海まで見渡せ、好天は保障されました。 本日は別山乗越から剱御前小舎に出て、まず剱岳をじっくり見ることにし、そのあと別山・真砂岳・富士ノ折立・大汝山・雄山と通常とは逆回りを試みました。 |
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雷鳥沢 | 立山方面 | |
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7時に雷鳥荘をでて・大日岳・立山を見回した後、雷鳥沢基部まで降りました。基部から左手の尾根部分を登ります。夏道では、別山乗越に出る道です。まだ早朝なのでアイゼンが良く効きます。周りの山々を見ながらゆっくり登ります。右に立山方面、左に地獄谷・大日岳、その向こうに日本海が見えます。立山から更に右手に一ノ越が見え、その向こうには槍ケ岳が見えます)。振返ると鍬ア山の背後に白山がかすかに見えます。正面、別山乗越の左には、赤谷尾根に続く毛勝・猫又方面の山々が見えます。稜線間近で、大きく右にトラバースして、別山乗越・剱御前小舎に出ました。 雷鳥沢基部から別山乗越まで約2時間でした。コースタイムの1・5倍以内でした。 |
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大日岳の奥に日本海 | 一ノ越の向こうに顔を覗かす槍 | |
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別山乗越から剱岳早月尾根 | ||
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別山乗越に出て、剱沢側に少し降りて、雪の剱岳をじっくり眺めました。ここから見る雪をかぶった剱岳は何か迫力に欠けます。夏に見る真っ黒な剱岳の方が魅力があります。それでも早月尾根・源次郎尾根には余り雪がついておらず、それなりの迫力があります。かって大学3年の5月に登った八峰は、ここからでは下半部分しか見えずチト残念です。過半部分だけでもなかなか立派ですが。 | |
早月尾根 | 源次郎尾根 | |
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白馬 | 八峰キレットの間に戸隠 | |
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ここから見る後立山は青く光ってきれいです。ただかなり遠くにあります。後立山から見た剱岳 の方が間近であった様に思います。左から右に、白馬岳・五竜岳・鹿島槍ケ岳・爺ケ岳と続きます。鹿島槍ケ岳が意外と小さく、爺ケ岳が意外と大きいのは今回の発見でした。八峰のキレットの向こう側に雪山が見え、妙高かと思ったのですが、地理的には戸隠方面のようです。 別山を少し登って、前方に薬師岳・黒部五郎岳が見え、振返ると剱岳と後立山が重なっていました。 |
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雷鳥 | 剱を振り返る | |
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雄山を目指してまずは別山の巻き道をゆきます。途中、何度か雷鳥と出会いました。雷鳥はまだ真っ白です。時々振返って剱 岳を見ます。 | ||
剱に続く稜線 | 雄山に続く稜線 | |
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目指す雄山へ稜線には雪がついていません。アイゼンを外してトラバースを始めましたが、途中に幅広い雪渓のトラバースが出てきました。かなり急な雪渓なので、トラバースを止め、またアイゼンをはいて、別山を直登しました。結局、巻き道で時間稼ぎを図ったのですが、徒労に終わりました。 | ||
雪庇 | 雄山神社 | |
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真砂岳を越えて鞍部にでましたが、富士の折立の登りがかなりきついこと分かりました。しかし戻るにも、別山乗越ははるかかなた、雷鳥沢を降りる下山道には足跡がなく、やむなく富士の折立を死に物狂いで登ることにしました。案ずるより産むがやすし、30分も苦労すると意外と簡単に富士の折立に出ました。頂上は迂回してしばらく行くと、大汝山に出て、そのまま雪庇の稜線を行くと、雄山神社が突然目の前に出てきて、ホッとしました。こちらからは雄山神社は背後になります。 | ||
雄山神社 | 鳥居 | |
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雄山神社の手前にちょっと嫌なナイフリッジがありましたが、これを越え、右に回って、雄山神社に出ました。午後2時30分でした。3年前の5月には神社から縦走路へ直接降りた記憶がありますが、まず直登は無理と判断しました。神社まで上がって、ここが雄山の頂上でもありますが、家内安全、登山安全を祈念しました。雄山神社は戸が閉められ、まだお休みのようでした。社務所の周辺は吹き溜まりなのか、雪で一杯で、鳥居は上まで雪に埋もれていました。 ここで遅い昼食(弁当)を食べましたが、かなり疲れており、食欲はありませんでした。連休の中休み故か、登山者にはほとんど会いませんでした。 |
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槍穂 | 薬師 | |
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黒部五郎と笠 | 裏銀の背後に燕 | |
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雄山山頂からは北アルプス南部の山々をが見ることができます。槍・穂高岳を真ん中にして、左に針の木岳、その背後に燕岳、手前に赤牛岳、右に薬師岳、黒部五郎岳そして黒部五郎の背後には秀麗な笠ヶ岳があります。笠ヶ岳をズームアップすると手前に雲の平があります。日本の山はやはり北ア、その中でも、北に剱・立山があり 、南に槍・穂高があると実感する光景です。 | ||
一ノ越 | 雄山を振り返る | |
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雄山山頂の展望を充分楽しんだ後、一ノ越に下りました(写真5−11)。雪の無い尾根道ですが、時々雪が出てくるので、アイゼンは取れず、大分キーキーと泣かせました。 一ノ越から旗を頼りに室堂まで出て、午後5時に雷鳥荘に着きました。10時間の行動で、ご老体はだいぶ疲れました。雪焼けで顔がほてっています。 雷鳥荘は明日からの連休再開で、大分込んできました。夜は8人部屋が満員でした。お客には韓国の人が多いようです。 |
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5月2日 帰宅 | ||
本日も快晴です。雄山に別れを告げ、朝8時発のバスに乗るため7時前に雷鳥荘を出ました。バス・ケーブルに乗り、9時過ぎに立山駅に着きました。立山のケーブル駅は順番待ちの人で一杯でした。大半がアルペンルートに行くのでしょう。 | ||
雄山 | 雷鳥荘 | |
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バイクに乗る準備をして、9時30分に立山駅の駐車場を出ました。時間があるので上市に出て、馬場島まで走ってみることにしました。上市では北方稜線から剱岳を見ることができましたが、山は霞んで、写真を撮るのは難しいようです。馬場島から剱岳・越中側の岩場が見られるのか、記憶は定かではありませんが、ともかく行ってみようとバイクを走らせました。しかし馬場島への道はかなりの山道で、舗装されているとはいえ、道幅も狭く、チト危険です。奥で工事をやっているのか、大型トラックが頻繁に通るので、身の危険を感じて、途中で戻りました。 | ||
白馬三山 | 鹿島槍 | |
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そのあと高速で糸魚川に出て、昼食をとって、国道を糸魚川から松本まで抜けました。目的は信州側の後立山を見ることです。この目論みは当たって、青空のもと、白馬三山、不帰岳・鹿島槍ケ岳を見ることが出来、最後には常念岳も見ることが出来ました。 豊科で高速に乗り、中央道から圏央道を通って、午後6時前に川越の我が家に着きました。連休再開でしたが、都心への登りだったので、高速は意外と空いており、渋滞は避けることが出来ました。バイクの走行距離は行きも帰りも400キロで、往復800キロでした。 天気に恵まれ楽しく、充実した3日間でした。 |
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3月中旬 安達太良山 |
参加者 杉村、稲吉、金子(41年卒)各OB 計3名 日時 09年3月18日(水)、19日(木) 場所 岳温泉〜安達太良山往復 行程 東京ー二本松ー岳温泉ー安達太良山往復ー岳温泉(泊)ー二本松ー会津ー東京 |
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昨年秋、常念小屋の前で日の出を見た際、おばさん登山者達にシャッターを押してあげましたが、その短い会話の中で彼女たちは福島から来たとのことで、会津駒や安達太良など福島の山の話題が出ました。その話の中で春の安達太良は潜らずツボ足で登れる事を知り、春になったらぜひ行こうと話し合いました。 その時は、前年末の硫黄岳があまりにも寒かったので年末の冬山は止めて、春を待とうと想ったのです。 結果、名物の強風もなく、手軽に登れてあまりに容易な雪山でしたが、下山して岳温泉のホテルの廊下で白銀の安達太良山を眺めると、それなりの満足感が得られました。 |
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稲吉、杉村OBはそれぞれ東京、神奈川から早い新幹線に乗り、大宮で合流、郡山、二本松と経由しタクシーで岳温泉まで来ました。ここからスキー場のゴンドラで一気に高度を稼ぎ、いよいよ登山開始です。 | 既に時刻は11時をはるかに周っていましたが、移動高に覆われ恐れていた強風もなく、のんびりと出発します。朝東京を出てその日に往復できる雪山に、過去、湯の丸山、黒斑山、那須茶臼岳に行きましたが、安達太良山もそれが可能な数少ない貴重な雪山です。左の白い山が安達太良のピークです。 | |
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以前気象部の山行で10月の安達太良山に来た時は、このあたりはブッシュの中を辿り視界は全くありませんでしたが、雪が1,5m位あるのでしょうか。眼を遮るものは何もありません。本日の気象予報では気温の上昇が告げられていましたが、予報通り気温が上昇し春のポカポカ陽気です。 | 残念なことに黄砂が飛んで遠くの山が霞んでいます。今は黄砂は一般に知られる現象になりましたが、昔はあまり耳にすることはありませんでした。2年の春山合宿の前、気象係だったので部室にある岳人のバックナンバーから、春の北アの気象報告を調べていました。その際、学習院山岳部の記録に黄砂の記述があり、はるか大陸から渡ってくる現象に強い印象を持った記憶がありました。 | |
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軽いトレースがありそれを辿ればツボ足でも潜りません。上を見たらこんなウイークディのど真ん中の日に、登山者なんか誰もいないだろうと想ってきたのに先行パーティが豆のように小さく動いているではありませんか。世の中同じことを考えている人はたくさんいるものです。 | 五葉松平にさしかかりました。ここがピークまでの中間点でしょう。無雪期はここで初めて眺望が得られた記憶があります。 | |
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五葉松平から一段と斜面を上がると潅木は雪の下になり、あたり一面白い世界になります。 | 安達太良のピークが近づいてきました。風の通り道なのでしょうか、稜線に上がると強風が襲ってきます。ピーク直下でザックを風で飛ばされないようにデポしてアイゼンを装着します。 | |
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安達太良山はこの乳頭のピークの部分のみが険しく、ピッケル、アイゼンが必要です。ピークは雪が風で飛ばされ岩が剥き出しです。 | 磐梯山、吾妻連峰が直ぐ近くに見えますが、まわりは馴染みの無い山々ばかりで、指呼できません。 | |
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卒業後のある年の5月のGWに、杉村、斎藤(雄)、秋野OBと共に東北の山だから雪があるだろうと安達太良にやってきました。満員の岳温泉の中間部屋に無理やり泊めてもらい、まだゴンドラの無かった時代、登れども雪が現れない登山道を辿ってピークに登りました。 | 折角持ってきたピッケルで、この斜面の雪田でグリセードを楽しみ、背後の稜線を辿り、山を下って鄙びた湯治場の中ノ沢温泉の旅籠に泊まりました。翌日裏磐梯の桧原湖に行き、観光バスの団体さんが賑わう中、ピッケルを持ってボートに乗って恥ずかしかった記憶があります。情報が貧弱な時代の出来事でした。 | |
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この谷の下が、温泉付山小屋で名高いくろがね小屋です。ピークで一緒だった単独登山者が降っています。登りの途中で見えた先行パーティは、我々がここに登ってきた時、入れ違いでくろがね小屋に降って行きました。 | 通常、雪の安達太良はくろがね小屋泊りがポピュラーです。くろがね小屋は高所で通年営業の温泉付き山小屋で人気があり、今回のコース設定でも迷ったのですが、岳温泉のホテルでゆったりし、天候によって登頂日を2段構えに考えた方が良いだろうと言うことで、温泉からの直接登頂に決めたのです。 | |
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途中見晴らしの良い場所で、夫婦愛の阿武隈川を眺めながら遅い昼食を採りました。しかし午後の遅い日差しの中黄砂のせいで大気は霞み、阿武隈の流れは、はっきり見えませんでした。 | ゆったりと食事を採りましたが、スキー場から岳温泉へのバスの時刻を思い出し、そんなにのんびりしていられない状況が判り、急いで下山しました。ロープウェイ乗り場で、安達太良のピークを振り返りました。 | |
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岳温泉の外れにあるウイークディで空いているホテルで快適な一夜を過ごした翌日、二本松城や二本松少年隊の史跡散策を予定していましたが、取りやめ会津に向かいました。 | 4度目の会津ですが好きな街です。鶴ヶ城は復元された城閣ですが美しい城です。戦国時代には多くの山城が戦いで落城しましたが、戊辰戦争では戦って落城した城は多くなく、鶴ヶ城はその数少ない城の一つです。 | |
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五層の天守閣の最上部が展望台になっています。春未だ浅い会津の城下を 眺めます。 |
会津盆地の周囲の山並みを眺めながら、これから訪れる飯盛山を捜します。ここからも良く見えますが、磐越西線の車内から望む雪の磐梯山は実に見事でした。 | |
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飯盛山から裏手に降ると重文のさざえ堂があります。螺旋建築の特異な建物です。 | その横に「戸ノ口堰洞穴」の水道トンネルがあります。雨の戸ノ口原の戦いで城下に向けて敗走した白虎隊員たちは、主要街道の滝沢峠を越えず近道のこの狭いトンネル抜けて、濡れと空腹に悩みながら飯盛山に登り、煙に包まれた天守閣が燃えているものと勘違いし全員自刀したのでした。 |