10年11月下旬 中山道、和田峠、塩尻峠越え



11月20日(土)、21日(日) 参加者:稲吉、杉村、金子、各OB(41年卒)

かねてより信州の古い街道の難路と言われた歴史ある峠を越えてみたいと考えていました。晩秋の寒くなる季節、新雪の山に身を置くより、落ち葉を踏みしめ、古き時代の気分を味わいながら幾万、幾百万の旅人が越えた歴史ある和田峠と塩尻峠を歩きました。
和田峠は碓氷峠と並ぶ中仙道の難所で、塩尻峠は中部日本の分水嶺の峠です。事前の行程調べは稲吉、杉村OBにまかせて、街道漫歩のつもりで呑気に出かけましたが、和田宿から歩き始めて和田峠の稜線が遥か彼方にあり、標高1531mの和田峠へは標高差700mもあり距離も考えると、徳沢から涸沢への行程に匹敵することが判り、気を引き締めて歩かないとヤバイことに気が付きました。
翌日は塩尻峠越えも堪能いたしましたが、平地に入ってからの塩尻宿、塩尻駅の遠い事、タクシーを拾えず平地歩きに慣れていない足にマメが出来てしまいました。やはり我ら岳人にとって平地ばかりの街道は興が薄く苦手なことが判りました。

それでも初めての街道の峠歩きには多くの発見がありました。峠そのものの眺望は山の乗越やコルに劣りますが、峠直下の登りではまだ見ぬ光景を期待して心がときめくのです。それにも増して街道沿いの家々のたたずまいの美しさは、日本の文化風土の厚みを感じさせてくれました。


11月20日

和田宿本陣跡

上田からバス、タクシーを乗り継いで、出発地とした和田宿に降り立ちます。立派な本陣です。ここから和田峠を越えて下諏訪まで約5里半(22km)で途中宿場はありません。和田峠の道は碓氷峠越えと共に難儀であることは、宿場間が離れていることもあります。
和田宿大出地区

静かな街道歩きを満喫します。
恐怖のR142

部落の旧道を抜けると現在の中仙道のR142に合体します。大型トラックや乗用車が行き交う恐怖の道で、長い枯れ枝を振り回しながら歩き、ドライバーの注意を喚起します。こんな所を歩いているバカがいると考える歩行者軽視の日本の風土の未熟な側面を垣間見ます。
側道が出てきてほっとしますが、直ぐ無くなります。この間2kの間側道がなく、恐怖の道でした。遠くに稲吉OBが立ち止まってメモをとり句をひねっています。俳人にとって恐怖の路も風雅に変わるのです。
唐沢部落付近

やがて最後の集落である唐沢部落の手前で待望の旧道に入りほっとします。
唐沢一里塚

江戸から五十一里の標識があります。正式な一里塚は直径五間の大きな塚で2基が一対です。唐沢一里塚は幕末には路線変更により街道から外れたため、完全な形で残っています。
観音橋

ここでR142は新和田トンネル有料道路と、従来の和田トンネルルートと2分します。旧道は真ん中に細くあります。塩尻峠の登り口もそうですが、現在の国道や高速道は昔の峠の登り口に必ず交差しています。昔の人の地形を見る眼の確かさに敬服します。
接待茶屋跡

旧道が再びR142と合流すると接待茶屋跡があります。江戸の呉服商が幕府に1000両を寄付し、冬の間、旅人には粥と焚き火を、馬には年中、子桶一杯の煮麦を振舞ったそうです。昔は立派な人がいました。
ビーナスラインを何箇所か横切って山道を登ると、待望の和田峠です。
現在では旧道の和田峠は古峠と呼ばれています。眺望は良くありませんが、趣のある峠です。


和田峠周辺は、縄文時代遠く青森の三内丸山まで流通したと言われる黒曜石の産地です。縄文人にとって黒曜石は割れば鋭利な刃物になる宝物でした。


和田峠西坂

あまりに細く急で、この道が五街道の一つとは到底思えませんでしたが、急坂を下り終えた所に昔の避難所の石小屋跡があり、道が間違っていない事がわかりました。
西餅屋跡

和田峠の下には、江戸時代5軒の東餅屋という茶店があり、ここは下諏訪側の西餅屋跡です。
ここから下諏訪まで旧道はなく恐怖のR142を歩く事になるため、タクシーを呼びました。


11月21日
諏訪大社秋宮

下諏訪の旅館に泊まり疲れを癒した翌日、諏訪大社秋宮、郷土資料館、オルゴール博物館などを覗いて、諏訪大社春宮を経て再び中仙道に入りました。
野沢菜漬け

野沢菜を漬けるシーズン真っ最中です。通りがかりのお宅で漬けていました。プラ桶でなくスギ桶を使って漬けていました。嬉しい光景です。
こんな中山道

なぜかこんな細い中仙道に出くわしました。
岡谷に入り美しい住宅街に出会いました。余りに見事で、美しい門被りの松と黒塀が続く家を、うっかり撮り忘れてしまいました。
この街道を歩くとあちこちから植木屋さんの刈り込みハサミの小気味良い音が聞こえてきます。

塩尻峠への登り

塩尻峠への旧道は峠まで途切れることなく続いていました。
               塩尻峠は中部地方の分水嶺です。諏訪湖や八ヶ岳、南アルプスを望みます。諏訪湖から天竜川が太平洋に、峠の西側からは
               田川が流れ、木曾山中から発する奈良井川と松本平の入り口で合流し、更に梓川と合流して犀川と名を変え、穂高川、高瀬川と
               合流した後、川中島で千曲川と合流し、越後に入って信濃川と名を変え日本海に注ぎます。
                                  火の見やぐらの見える美しい山村です。これぞ信濃路です。
美しい柿沢集落

ゴミ一つ雑草一つ生えていない美しい集落です。何代も続いて中仙道を守っている誇りさえ感じさせてくれます。
雀おどしの民家

この辺りで良く見かけた雀おどしを設置した重厚なお宅です。




この集落を出てから塩尻駅まで長くて疲れました。
結果的には2日間で34kmを歩きましたが、晩秋の信濃路を心ゆくまで堪能し、私たちにとって山とは別の楽しみが加わりました。






10年11月下旬 熊野古道〜大峯奥駈道 玉置山

2010年11月26日〜27日、笠原OB(40年卒)の紀行です。

打矢OBのお供をして熊野古道近くと大峯奥駈道の一部を歩いたので概略報告します。


奥熊野古道近くの土場

グリーンスピリッツ協議会の見学会行事として和歌山・奈良県境の熊野古道に近い林業現場(土場)を見学する機会があった。写真の機械は、伐採された樹木をチェーン巻のタイヤで挟んで動かし、枝を一回で払い、定尺に位置決めしてチェーンソー切断を続けて行えるスグレモノである。従来、3人で掛っていた作業を一人で重機の運転席から能率よく行っていた。
玉置山から大峯山系

吉野大峯奥駈道の南端部をなす、十津川村の玉置山(1076m)に登る途中からの北方望遠である。遠景左が釈迦ヶ岳(1800m)、右が孔雀岳(1779m)と思われる。なお、十津川村は日本一広い村で陸の孤島と言われるほど山深い地理や古い歴史が興味深い。

 大峯奥駈道世界遺産碑

奥駈道ルート上の玉置山から稜線を北へ行った展望台(980m付近)まで車で行けるが、歩くと標高差900m以上の登りになる。展望台から奥駈道を南へ歩いた途中にこの碑があった。中央が打矢OB,右は同協議会会長。

 

大峯奥駈道玉置山へ

奥駈道上の道標。奥駈道は修験の道にて一般登山道ではないそうだ。
大峯奥駈道

この辺りの奥駈道は、緩い登り下りが続く。日差しがあって温かい。

玉置神社の神代杉

霊峰玉置山の頂き近くに「玉石社」があり、その近くに玉置神社がある。「玉石社」は、神武天皇が東征のおり兵を休め勝利を祈ったと伝えられ歴史が古い。玉置神社には樹齢3000年とも言われる神代杉があり、樹高20m、目通り幹周り8.3m、の古木である。東征の時代には考古学や歴史学が及ばずなかなか興味深い(詳細省略)。

玉置神社の大杉

樹高45m、幹周りは10m、樹齢は1000年と伝承され、奈良県の天然記念物になっている。

玉置神社の枕状溶岩

海底に噴出した溶岩が冷やされて枕状になったもので、プレートの移動に乗って日本列島に運ばれ付加体となって地質を構成し隆起によって陸地高く持ち上げられたものと思った。玉石社のご神体は地表に頭を少し出した丸い石だそうで、古代からの磐座(いわくら)信仰の源だそうだが、枕状溶岩と関係があるのかなと思った。玉置神社の社務所で日本最古級歴史などの説明を受けてから山を下り、熊野三山熊野本宮大社と大斎原を訪れた。大斎原は旧本宮大社が水害に遭って移設される前の旧社位置にあった。その前にある大鳥居(高さ33.9m、横42m)は日本一大きい(興味深いが詳細省略)。

★(付記):打矢OBは吉野大峯奥駈道の踏破を目ろんでいます。同行等ご興味のある方はお知らせください。





10年10月初旬 八幡平、岩手山、早池峰山
2010年10月7日〜9日、笠原OB(40年卒)の紀行です。

家族と山形へ行った折りに独り抜け出し、東北の3山を登ったので報告します。
1    10.7 八幡平

天童発JR〜山形からバスを仙台で乗継いで盛岡へ行き、駅前で軽自動車をレンタルした。


八幡平アスピーテライン

幡平アスピーテラインを登った。黄葉・紅葉盛り

八幡平から岩手山

南を眺めれば右手から稜線が岩木山へと連なっている。八幡平見返峠へ行き、手前の無料駐車場まで戻って下車した。


八幡平頂 石畳道

返峠から緩やかな石畳が続き、観光客が次々とやって来た。八幡平はアプローチが便利になったが、山の自然そのものは価値あることを紹介したい。

八幡沼

沼の左に陵雲荘が見える。
向こうに見える小さな丘は源太森火山1595m。この付近にある木はアオモリトドマツでオオシラビソとも言い、北海道にあるアカトド、アオトドや本州の高山に多いシラベやモミの仲間だ。冬に季節風をまともに受けて見事な樹氷をつける。この辺りの積雪は56mにもなるそうだ。

八幡平頂上(1613m)展望台から。

狭義の八幡平は、三角点を中心に東の源太森、南の見返峠まで殆ど平坦だ。広義の八幡平は、東方の茶臼岳1568、西方の焼山1366などの火山群を含む高原状の山地をさす。山頂まで亜高山針葉樹林に覆われ、点在する湿原は北欧風で美しい。1951年に焼山が爆発、八幡沼・蟇沼・鏡沼などの火口湖や池塘が点在し湿原植物が茂る。
八幡平ガマ沼

八幡沼やガマ沼は複数の火口の連なりに水が溜まったもので、八幡平台地にはこれらの爆裂火口が18個あり、急な火口壁には遅くまで雪が残るそうだ。
八幡平 メガネ沼

夏まで雪が残るそうだ。
八幡平鏡沼

鏡のように静かだった。
八幡平 不思議な凹地

このような深い凹地ができた原因は分かっていない。7月まで残雪がみられるそうだ。
八幡平見返峠東の無料P

この後アスピーテラインを下り東北自動車道の東を迂回して、岩手山東北麓の焼走りの湯(560m)へ移動し、温泉に浸かってから車中泊した。軽の車内でも身体を十分に伸ばせた。

    10.8 岩手山


岩手山の山体は二つの火山からなり、今回登った東岩手山は西岩手山の東斜面に形成された新しい火山で噴気孔がみられる。西岩手山では高山植物が多く亜高山針葉樹林が発達するが、東岩手山では火山荒原が広い面積を占め、とくに東斜面では砂礫地が1300m付近まで低下している。1719年に北東斜面の中腹1200mで起こった噴火は、溶岩流が3.5kmにわたって流下し、現在「焼走り溶岩流」として国の特別天然記念物に指定されている(参照文献1)。焼走りの湯からの登路は、その北縁に沿って登るが、森と霧で懐中電灯が照らす脚元しか分からなかった。


岩手山第2噴出口跡(標高1100m

焼走り溶岩流の噴出口になって下へ流下し展開している。


第2噴出口跡から山頂

この斜面の森林限界は低い。
第1噴出口跡(1200m

焼走り溶岩流の上の噴出口になっている。

岩手山平笠不動避難小屋(1770m

この小屋は屏風尾根の頭の基部にあり、森林限界に近い平地という良い立地だ。生化学的尿処理装置が設備されていた。室内10℃。
平笠不動平から茶臼岳(1780m

平笠不動避難小屋南の平坦地から茶臼山。これは東岩手カルデラ(後述)の一部とみた。
火口縁平笠不動分岐(2005m)から北東方、山頂(右が火口)
最高峰は薬師岳(2038m) で、直径600mの火口内には妙高岳火口丘(1990m)がある

平笠不動分岐から東方、火口西部

火口(底:1920m)の一部が見える。左は中央火口丘の妙高岳。


岩手山薬師岳頂上(2038m

信仰の山でもある。
岩手山下山途中(1300m)東北東方面俯瞰

焼走り溶岩流が黒く展開している。左が焼走りの湯と国際交流村。

焼走り溶岩流:650m付近から
ハワイ島のキラウェア火山の溶岩流に似ている。足場が悪いので中に入るのは危ない。噴火から約290年経っているが植生は未だ見られない。あと850年もすれば青木ヶ原樹海の今のようになるのだろう。

これから早池峰山へ移動するのだが、汗ばんだので焼走りの湯に再度浸かった。夕暮れの東北自動車道を紫波ICで出て、夜道をひたすら走った。両側1車線の路幅に狭まり濡れた落葉を走っり早池峰山南麓の河原坊へ着いた。真っ暗闇だったが運よく下山者に会った。小田越を越え少し行ったところに駐車できると聞き乗車した。小田越山荘への入口だった。車の傾斜が寝には逆だったがそのまま車中泊とした。



(地学的付記)

岩手火山群の活動は、今からおよそ150万年前の松川安山岩の噴出までさかのぼる。(中略)古岩手山は標高2200mに達した後、12万年前に南東部が崩れ(小岩井−大石渡岩屑なだれ)流下し、崩壊源には大規模なくぼ地(鬼又カルデラ)が形成されたと考えられている。その後、玄武岩質の溶岩流と火砕岩のくりかえし噴出や、崩壊によるカルデラ形成と埋め尽くしなど(詳略)を経て、およそ6000年前に山体の東側で大規模な崩壊がおこり広い範囲を崩壊物が襲った(平笠岩屑なだれ)。崩壊源に東岩手カルデラが形成されたが、新しい噴出物によってほぼ埋めつくされ、8合目避難小屋の南に見える高さ50mほどの急崖は、埋まらずに残った東カルデラ壁の一部である。

その後、噴火の中心を東に移して活動が再開し、玄武岩質の溶岩流やスコリアを噴出し、比較的おだやかな噴火をくりかえしながら山体を成長させた。

最近では、1686年の山頂火口からのスコリア噴出と、1719年の焼走り溶岩流があった(2,3)。その後、1919年の水蒸気爆発、1998-2003 火山性地震、地殻変動が見られ、入山規制は2004年7月に解除されたが看視中であり注意が必要とのことである。

    10.9 早池峰山


天童へ16時迄に帰るべく3時に起床したが小田越の登山口は4:15になってしまった。初め緩やかだが次第に傾斜を増し林内でも岩塊の路となり、森林限界は1400mとなっている。この低い森林限界は、斜面上の岩塊の存在に制約されて寸づまり現象を起こしたためとされている。この岩塊こそ氷期の寒冷気候のもとで凍結―融解により基盤岩体から生産されて移動してきたもので、この斜面は化石周氷河斜面なのである(1)


早池峰山五合から上部露岩帯

合お金蔵(1650m付近)を越えると上部が見えてきた。早池峰山は、周辺の1000m前後に広がる北上山地の準平原からひときわ高くそびえ、亜高山帯から高山帯までの自然がある。山体は東西に細長く延び、おもに蛇紋岩で構成され、それが侵食で削り残された残丘(モナドノック)と考えられている。頂上の山稜までは、緩→急→緩→急の大きな階段状斜面で、急傾斜の部分が基盤岩の急崖やトア(岩塔)、緩傾斜の部分が岩塊斜面となっている(1)
(1670m付近)

北上山地は先シルル紀の基盤岩類、シルル系〜下部白亜系の堆積岩と、これらを貫く前期白亜紀花こう岩類からおもに構成され、西方の中岳周辺とともに中岳蛇紋岩が分布する(2)
早池峰山梯子(1850m付近)

蛇紋岩は硬い岩なので、侵食からとり残されて周囲から突出した高い山になることがあり(4)、ここで典型的な実物地形を観察することが出来た。蛇紋岩は風化作用を受けやすく、表面に粘土鉱物を含んで平滑になることがあるので滑りやすい。
早池峰山梯子から俯瞰

蛇紋岩の山は、特有の岩質のため表土が流れ出て森林限界も低くなり、高山植物の生育地が広くなる。蛇紋岩の山として、夕張岳1668m、尾瀬の至仏山、谷川岳、北アルプスの八方尾根、白馬岳の北方に点々と分布し、特有の植物が育つ(4)
剣ケ峰分岐(1880m)、前方頂上

早池峰山は、北上高地のほぼ中央にあって、主峰から西に中岳・鶏頭岳が連なり、東に剣ケ峰・高桧山が連なる。地質的には、北上高地の地向斜に断層を生じた早池峰構造帯に貫入した橄欖岩が侵食作用の中で残った残丘で、表面が変質して蛇紋岩となった。
早池峰山頂避難小屋へ(1890m付近)

岩塊による足場の悪さと自然保護のためか木道が整備されていた。
早池峰山頂避難小屋(1910m

室内の寒暖計は3℃だった。
早池峰山頂(1917m

山頂は巨岩が露出している。南面は急峻な古生層が重畳し、その間に高山植物の草本帯が広がる。三角点の高さ1917mよりいくらか高い。雲海の向こうに岩木山が望遠できた。


早池峰山頂避難小屋 携帯トイレ

自然環境の保全に大きな注意と努力が払われており、山頂トイレは携帯トイレ用だった。毎年ボランティアの人達がし尿をふもとまで担いで下してくれている。

早池峰山には「特別地域」、「野生動植物保護地区」が設定され、付近は早池峰特定公園になっている。

 
下山時、早池峰山と地質・地形が対をなす南隣の薬師岳を期待したが雲に隠されていた。


河原坊途中(1140m)から早池峰山南面

早池峰山は非火山性ピークで東北地方の最高峰であり、地質・地形、特に「化石周氷河斜面」が特異とも言え貴重な自然であると感心しながら車を止めて改めて山体を見直した。この後盛岡駅前のレンタカー店へ走り、14.2Lの燃料(走行334km)と122時間のレンタル料(13,026円)で間に合わせることができ、正味2日間の3山となった。



(付記)
 シルル紀とは、地質時代の古生代に属し、約43500万年前〜約41000万年前をさす。近くの宮守・大迫地域の斑れい岩から(シルル紀より前の)オルドビス紀を示すK-Ar年代が報告されたので、日本では飛騨変成岩のカンブリア紀に次ぐ最古の地層であると言える。(参照文献)
(1):小泉武栄+清水長正編(1992):山の自然学入門,古今書院(101都千代田区神田駿河台2-10.

(2):日本の地質2、東北地方、共立出版、代表編集委員:生出慶司・中川久し夫・蟹沢總史.1991

(3):高橋正樹+小林哲夫編(1999):東北の火山,フィールドガイド日本の火山C,築地書館.

(4):広島三朗著(1991):山が楽しくなる地形と地学,山と渓谷社,






10年9月初旬 苗場山、谷川岳 


     メンバー:本橋(昭
36卒)、広瀬(同36)、笠原(40)各OB          記:笠原OB

     時期:2010年9/4(土)〜9/5(日)

     九州大分から空路アプローチの広瀬OBと新幹線に乗り、前橋で本橋OBと合流し越後湯沢着。

          和田小屋前登山カード記入 和田小屋から登行開始。9月というのに真夏の暑さ。
              (注:写真上の日時には7時間時差のカメラ修正忘れが残っていた。)

   

中ノ芝、広瀬・本橋OB

 木製の見晴台があり寝転んだりしばし寛ぐ。

 

中ノ芝からの登り 本橋OB

 木製階段で整備された箇所。

 
   

神楽峰から苗場山

 手前の鞍部越しに見る苗場山は大きく立派。

   

雷清水 広瀬・笠原OB

 登下山中唯一の水場。苗場山寄りに幕営跡の平地があった。

 

   
 

苗場山頂台地木道。  山頂台地に出ると、草の緩斜面が続き、木道で保護されていた。

 
 
 

   苗場山頂台地ケルンから南方俯瞰。   山頂台地南方へ池塘と樹木が増す。

 
 

苗場山頂台地南部遠望。  山頂台地南方に池塘と樹木が見える。

 
   

苗場山頂台地木道、本橋OB

 台地上を散策

   

苗場山池溏、広瀬OB

 山頂台地から赤湯への下降点近くの池

   

苗場山頂ヒュッテ、広瀬・本橋OB

 夕食カレーにトマトなどの野菜が美味しかった。

   

苗場山頂 広瀬OB

 山頂は平地で遊仙閣の敷地内のように見えた。

 
 

                      至仏山左肩から日の出、左は燧岳
山頂台地の東下降点で日の出を待つ。尾瀬の至仏岳の左から日の出。朝弁を食す。遠景を右へ眺めると日光連山の高みが続き、皇海山が抜きんでてから高度を下げ、中景には谷川連峰から志賀高原の山並みまでぐるりと見えた。

 
 
 

 天神平後方谷川岳、広瀬、笠原、本橋OB

 苗場山を下山し、越後湯沢から在来線を土合へ移り、炎天下バス待ちし、谷川岳ロープウェイどあいぐち駅に着いた。中学生の団体にぶつかったので昼食で時間調整したが観光客が集まり、谷川岳往復の時間が危うくなってきたので往復切符を片道に払い戻しして搭乗した。天神平は遊園地のように賑わっていた。

 
 

北北東方 笠ヶ岳〜白毛門

 天神尾根の巻き道から、中央は朝日岳。

 
   

谷川岳(耳二つ)を眺める

 左のトマノ耳から右へ西黒尾根。その向こうにオキノ耳。

   

谷川岳南東斜面

   西方 俎ー 
   
 

 第一見晴と谷川岳肩の広場方面 熊穴沢避難小屋を過ぎ、谷川岳山頂の見える岩瘤(1650m

 
 
 

第一見晴南岩峰 本橋OB

 同岩瘤にて引き返すことにした。

 
   

西方 中ゴー尾根

 中ゴー尾根の東斜面はヒッゴウ沢に向かって雪に磨かれた急斜面になっているが、「氷河周辺気候」による典型的な「周氷河地形」とみた。

   

 熊穴沢避難小屋分岐 広瀬OB

 ここから、ロープウェイへは行かず、南へ、いわお新道を下ることにした。苗場山の夜明けから日に照らされ続けているので、熱中症を考慮しつつ水分を補給した。

 

谷川二俣からの下り本橋

 二俣(770m)に下り着きタオルを濡らして身体を拭いた。

 
   

巨大転石

転石のサイズが著しく大きく出水時の流れが極めて激しいと思ったが、一方、沢の勾配の割に沢底が広く河原をなし砂礫の堆積も多いことが驚きであった。

地形図を見ると、上流の関越トンネル空気孔周辺からヒッゴウ沢出合にかけて谷底が広く,緩傾斜幅が200mにも及び、ヒッゴウ沢が伏流をなしていることも関係してみえる。

このような緩傾斜地形を形成したのは、上部からの破砕岩石の補給が多いことと、下流の何箇所かにある喉のような狭隘部で出水時の大流量が滞留した状態となって堆積するものと考えた。

その理由として背後に俎ーなど露岩の急斜面に囲まれた扇の要状の地勢であることと、冬季の猛烈な豪雪が融雪期に大出水を引き起こし巨大な転石を産み出すものと考えた。

   

 転石累々

 この転石も大きい。上部に植生があり岩の色がくすんでいるので時間は経っているが、大きな時間とスケールでこの谷は変動していると思った。

 

柿ノ沢仮設橋

 仮設の橋も不安定に変形していることから環境の厳しさを想った。

 
   

谷川温泉到着

 山間の平地をなす谷川温泉に着いた。河原は大石の堆積が見られる。この到着直前、蛭に二箇所咬まれ、旅館(標高560m)で手当を受けることになった。この標高では蛭も活動していたのだ。この日の累積標高差は下りだけで2000mを超え、暑い一日だった。

 




10年9月中旬 唐松岳、五竜岳
  9月17(金)、18(土)、19(日)の3日間、41年卒同期の斉藤、杉村、金子OBで、唐松、五竜の縦走を行いました。
この山行は、連休にかかるため1週前に予定していましたが、天候が悪いのと皆の都合が合わず、結局連休にかかってしまいました。昨年鹿島槍の冷小屋で大混雑したため何とか連休を避けようと思いましたが、連休1日前の唐松山荘は快適でしたが、五竜山荘では大混雑に巻き込まれ、ほとんど眠れませんでした。連休は若い人たちのためにあり、年寄りが連休に行ってはいけません。


最近の山では特筆すべきことがあります。それは若い女性たちの間で山に興味を持つ人が増え、山ガールと呼ばれる人たちが新しい山のファッションをまとい、高山にも進出して来たことです。長い間、高年登山者の棲息の場であった山に、新しい人たちが積極的に進出し始めて、山も華やかになってきました。

新しい山の雑誌「ピ−クス」 取材班の編集者の平方さんとカメラマンの宮田さんです。山小屋100の取材のため、小川温泉から朝日岳、白馬岳を経由して縦走してきました。これから鹿島槍を越えて針ノ木から船窪小屋まで行くそうです。若い人たちによる新しい山の雑誌に期待したいです。
 
八方尾根の下の樺を過ぎて昼食の場所を探しながら登っている時、下のほうから2度ほど「熊がいます!」という女性の声が聞こえました。熊に弁当を襲われたくないので、見通しの良い場所まで行き昼食を採っていたら 、この写真の若い女性たちが登ってきました。聞くところによると、登山道の真ん中でガサガサと音がしたので、見ると熊が居たので、「熊がいます!」と声をあげたそうです。熊も逃げたそうですが、それにしてもさぞ驚ろかれたと想います。
   
 初日、朝長野経由で八方から登り始めました。八方池で。予報に反して天気が悪く、とうとう上の樺で本降りになり、雨具を着て登りました。
   
 翌日、晴れです。唐松小屋は建て替えましたが、唐松名物のこの光景は今でも見られます。朝の唐松です。何回か登っているのでピークはカットします。
 
剱をバックに、山ガールのみなさんと記念撮影です。山ガールの皆さんは東京都心にお勤めの方たちで、山を始めて2年だそうで、今回は唐松往復の計画だそうです。私たちが寝ている最中に唐松岳をピストンしました。八方の登りを見ても足が揃っているのに、無理をせずとても謙虚でかしこい人たちです。
 
 2日目、唐松から五竜小屋へ行き、五竜をピストンし、そのまま小屋に宿泊します。
唐松小屋を出たところから全く記憶のない鎖場が始まりました。学生時代の縦走でも鎖場の記憶は全くありません。
本来楽しいはずの鎖場の通過は、お腹が岩につかえ体が重く少しも快適ではありません。鎖場は若い人たちのものです。斉藤OBは人の引きつった顔を写真に収めて楽しんでいます。
   
   
   
   
   
   
鎖場も終わり最低鞍部でくつろいでいる時に、唐松小屋で一緒だった雑誌「ピークス」の平方さんと宮田さんがやってきました。唐松山荘で取材をしてからやってきた2人は、私たちがまだこんな所にいたとの驚きの表情を一瞬見せましたが、直ぐに表情を変えてくれ て、さっそうと白岳を目指して登っていきました。若さは偉大です。


五竜小屋から見る 五竜は、あんな所まで登れるのだろうか巨大でした。しかも全く記憶のない鎖場が次から次へと現れ、カメラバックだけで、ザックにストックが装着できないため悲惨でした。ピーク直下でスペースがありストックをデポ出来たので助かりました。学生時代の重荷を背負った縦走や
春山の五竜はどうだったのでしょうか?
 
 
 
登りはじめからガスで 何も見えません。
 

遠見尾根や五竜、唐松は私たち41年同期とその上下の世代にとって懐かしい地です。 2年の時の春山で、遠見尾根から五竜、唐松、鹿島槍を目指し約20日近くをこの山域で過ごしました。法政小屋をBH、大遠見にBC、白岳付近にC1を設置して、鹿島槍、五竜、唐松の登頂を目指しましたが、この年は春の訪れが遅く入山以来連日悪天候が続き、たった一日の晴天を気象担当の私の予報の失敗で出発が遅れ、鹿島槍アタックは時間切れでキレットで敗退し、五竜、唐松登頂のみで終わりました。この翌日二ッ玉低気圧の襲来で朝から風雪が強まり2時間おきの除雪を続けました。完全装備で待機していた夜9時頃、除雪しようと入り口の吹流しを解いていた時、突然上部の雪の崩壊で生じた雪崩でテントが埋まってしまいました。雪の重みに耐えながらナイフでテントを切り裂き1人々脱出し、直ぐに埋没した隣のテントの位置を見定めて掘り起こし、全員無事に着の身着のままで、近くの五竜小屋に避難しました。翌日風雪の中一日かかってピッケルやアイゼンを初め、装備を掘り起こしました。

この山行後、私たち41年同期は雪山の舞台を南アルプス全山縦走や槍周辺に移したため、遠見尾根を訪れたのはこの時以来でした。 


 3日目。今回の目的の遠見尾根を下ります。
 
白岳ピークからの五竜です。 
 
 
白岳から唐松を振り返ります。
 
 
 白岳から西遠見、大遠見を臨みます。小遠見ははるか先です。
 
 
 白岳から鎖場を交えた急な下りが続きます。ナナカマドの上に鹿島槍が顔を覗かせました。
 
 
 
 西遠見の池は気持ちの良い場所です。鹿島槍から五竜までパノラマで見渡せます。
 
 
 カクネ里の残雪を抱いた鹿島槍の北壁です。
 
 
 大遠見です。ここが当時の春山のBCの場所で、風雪やガスで姿は見えないけれど、北壁に落ちる雪崩の音が遠雷のように響いていたことを思い出します。思えば斉藤OBと杉村OBはルート工作隊として先行しましたが、沼田OBと私は荷上げに従事し白岳のC1に入ったのは入山して10日目であり、その間風雪の中、この長大な尾根をラッセルしながら荷上げのため登り下りしていたこともあり、この長い尾根に愛着を感じます。
 

10年7月中旬 大雪山
 
 41年同期の夏の大雪山行は半年前から計画していましたが、斉藤OBはカラコラムへ、小田OBは息子さんと双六〜槍行のため、結局、稲吉、杉村、金子OBの3名で出かけました。梅雨の無い北海道を期待して行きましたが、今年の北海道は天候不順で悪天に遭遇したため、大雪山黒岳〜旭岳の縦走を取りやめ旭岳ピストンに変更しましたが、オホーツクの冷たい強風が吹き荒れ止む無く8合目で引き返しました。

 しかし層雲峡温泉や旭岳温泉を堪能し、鉄道やバスの車窓を楽しみ、二日続けて旭川の博物館に通い上川盆地の歴史や軍都旭川の成り立ちに触れ、登山としては不満足でしたが、旅として考えると短いながらも極めて密度の濃い充実したものでした。

 同期の海野OBは我々の10日後、悪天の中、単独行で旭岳からトムラウシ山の縦走に成功しました。
 
 
強風のため旭岳ピークは あきらめ下山してきました。不思議なことに我々以外は誰も引き返しません。どうしてなのでしょう?
 
 
 
 旭川市博物館です。
上川盆地の縄文時代からホホーツク文化、擦文土器文化 、アイヌ文化を解りやすく解説しています。上川盆地は古来から豊かな地で、江戸時代には石狩川を遡行してくるサケを、アイヌの家が平均飼っている7匹の犬だけでも2000尾を川でくわえて来たそうです。
 
 
 大自然と共生してきたアイヌの人々の暮らしと、北の大地の広い空間をイメージした館の展示です。博物館は過去を見せながらも、同時に未来をも示唆する重要な場であることが解ります。
       
 
朝6時の始発ロープウエイに乗って、登り始めました。旭岳姿見の池の上の地獄谷で盛んに噴煙を挙げています。大雪山は、まだ若い活火山 です。ここまでは風も弱くルンルンでした。 
 
 残雪を抱いている山がトムラウシ山で、中央の山が十勝連峰です。
 
 
あまりの冷たいオホーツクからの強風のため、もうひと頑張りでピークですが、ここで登頂は断念しました。
 
下山して。稲吉OBは2回ほど帽子を飛ばされたため脱いでいます。
 
 見渡す限りのチングルマ(稚児車)の大群落です。チングルマと共にエゾノツガザクラ(蝦夷ノ栂桜)も 群生していましたが、両者共宿根草ではなく背丈は草花と同じですが常緑低木です。厳しい環境下では毎年芽を出す宿根草と比べると、枯れずに雪の下で越冬する常緑低木の方が少ないエネルギーで過せるためでしょうか。
 
 旧陸軍第7師団(現自衛隊第2師団)の北鎮記念館です。
 旭川市博物館は上川盆地の古代から幕末までの展示でしたが、明治になって屯田兵入植から続く軍都旭川の成立の歴史は この北鎮記念館でないと解りません。
 博物館では、石狩川沿いの屯田兵の入植、そして広大な上川盆地の原野に第7師団を設置し軍都旭川の誕生した経緯。熊本の第6師団と共に最強師団と呼ばれた第7師団の戦歴解説。また現自衛隊最強師団と言われている第2師団の、第1次イラクPKO部隊の派遣などが手際よく解説されています。
 ピアノは五木寛之のドキュメンタリーに登場した旅順要塞司令官のステッセルのピアノです。日本にステッセルのピアノといわれるものが4台あり、上のピアノはその内の1台です。




10年6月末〜7月初 富士山村山古道登山と開山祭
 笠原OB(40年卒)は今夏、平安時代から続く古い修験の道である村山古道に、NPO法人のツアーで参加し田子の浦から標高差3,776mの登山に挑戦たしました。以下は笠原OBの寄稿です。

富士山に平安末期に開かれた村山古道は明治末に歴史を閉じ、廃れて100年、苦労の末復活させた村山古道を海抜0mから登り、聖護院富士山峯入り修行にも参加するお誘いを受け、無事登頂出来たので概要を報告します。

 
@ 2010年6/30(水)海抜0m(田子の浦)からの出発

藤沢駅で主催者(畠堀氏)が同乗、名古屋を早朝に発った女性と吉原駅で合流した。ザックを背負って8:20歩行開始。既に照り暑い。海側砂丘地形を進み田子の浦の鈴川海岸へ。

6/30 08:51田子の浦出発

岸はテトラポッド等で護岸されているが、異なる管理者(静岡県と国交省)の境界で護岸が切れて砂浜となっている地点を狙って太平洋の海水に触り、海抜0メートルの出発をした(8:50)。

 
 

6/30 09:14田子の浦富士塚

海岸からの戻りの途中、富士塚や昔の遺跡類を訪ね、古東海道、旧東海道をたどる。広重の絵にもある「左富士」の名所を過ぎ旧吉原宿へ。「平家越」では、「富士川の葦原を一斉に飛び立った水鳥の羽音を敵の襲来と誤認した平家軍が我先と逃げ出し、源氏軍は戦わずに勝利を収めた」とあり、当時の河口は、現在の富士川より東に6キロほど広がり、幾度も流域を変えたことを示していた。

日吉浅間神社へ寄り道すると神主さんが特別に安全祈願のお祓いをしてくださり、神社の裏の墓地へ案内し明治までは醍醐寺系の修験寺だった系譜も説明してくれるなど懇切丁寧な歴史の紹介があった。

 
 

6/30 12:33鯛屋旅館

神主さんが鯛屋旅館まで送ってくださり、鯛屋の御隠居さん(7/2同行)が火打石でカチカチツと厄除の切り火してくださった。鯛屋は山岡鉄舟や清水次郎長の定宿だった。油照りの蒸し暑い中のザックを背負っての歩行だったが、畠堀氏は大きなザックの上に直径50cmもある円盤状の荷物を背負っていた。それは瞬時に設営できるフレームの入ったトイレ用の簡易テントだった。この時期六合目より上の山小屋はまだ開いていないので、威力を発揮することになる。途中のレストランで水分補給とボリーウムある昼食で一息ついた。

経路は最短コースではなく旧東海道を細い道へも迂回しつつ進み三日市で右折していよいよ古い田舎道へ入った。広見公園前の西富士道路とその後の富士インター線及び第2東名(工事中)の越え方は、案内図が無いと分かりにくい。「左村山道」などと彫られた自然岩の道しるべを数えながら、最後のコンビニ(ローソン富士大渕店)で水分補給。清水次郎長が開拓した次郎長開墾の先を右折するとき、畠堀氏は鎌を出して案内板を覆うススキを払った。

 畠堀氏は、明治初期の廃仏毀釈で失われた遺物を探し出し、苦労の末、村山古道を回復させたのだが、石の道標を辿りながら、自動車道路の工事で乱れた複雑な経路(未舗装含む)を選びながら進んだ。

 

6/30 17:54村山神社巨木

徐々に勾配を増し、漸く標高500m村山浅間神社へ至った(18:30)。樹齢千年、胸高周囲10m、樹高42mの杉の巨木を仰ぎ見て、隣接する村山ジャンボ(宿泊施設)に入った(歩数:2万歩)。

 施設食堂内では、翌日の開山祭に向けての行事予定の確認があった。京都の聖護院から参画した山伏達、村山浅間神社の宮司、富士宮市観光協会、地元の中学校・小学校の校長、などなどとともに我らも自己紹介した。

 
 

A 7/1(木):富士山開山祭(聖護院修験者による護摩焚きなど)

開山祭の前に、前夜と当朝合流としたメンバーを加え7名で周辺の見学を行った。

7/1 08:33村山古道大日堂役の行者

巨木に囲まれた村山浅間神社境内にある大日堂(興法寺)には役行者像が祀られていた。村山浅間神社は、文武天皇の701年、富士山開山の祖と言われる役行者が勅命により奉遷せられたと伝承される。また、12世紀末に末代上人によって開かれたとも言われる。村山浅間神社は、歴代の皇室及び武将の崇拝厚く、幾度か災害に見舞われたが、その都度皇室及び坂上田村麻呂や武田勝頼、徳川家康など有力武将によって再建されてきた。しかし、明治維新後の廃仏毀釈によって神仏分離がなされ、山中にあった多くの仏像が破壊され貴重な遺産を失ってしまった。11906年に大宮新道が開かれると村山古道は使用されなくなり衰退した。

村山の歴史を語る遺跡について、西見附から東見附まで案内された。

大日堂の隣接地では水垢離や護摩焚きの準備が行われ、地元中学の男子1年生が総合学習の一環として褌一枚の姿で待機していた。

 

7/1 08:52オールコック富士登山150周年記念碑

今年は、幕末の英国公使オールコックが外国人として初めて富士山に登った時(1860年)から150年という節目であり、英国大使夫妻が富士宮市長や、ミス富士市、ミス富士宮市とともに参列した。

 
 

7/1 11:03村山浅間神社水垢離中学生

10時に、地元のマスコミがカメラを構える中で、篠懸姿の山伏が吹く法螺貝の音とともに開山祭が始まり、宮司によるお祓いが厳かに行われた。

 
 

7/1 11:10村山浅間神社水垢離中学生

山伏達が読経する中で山伏に導かれた中学生が水垢離を行った。総合学習の一環だそうだ。

 
 

7/1 11:17英国大使村山古道開山祭

 水垢離が済むと参会者一同は水垢離場から登山口へ移動した。

畠堀氏は、記録類・手紙・書付・石碑上の文字の読取りなどの史料調査を加えつつ、長年現地踏査によって村山古道を探索し、関係学会で発表してきた。同氏は関係する現地の写真と注釈を加えた村山古道の25,000分の一地図を著した。私はその新聞記事に接したのが縁で今回の行事に参加することになった。

 畠堀氏はその地図を英国大使に渡す用意をしていた。しかし、英国大使と並ぶように歩いたが渡さなかった。今まで大使夫人が日本人だったので用意したが、今日会ってみると大使が変わり夫人も日本人ではなかった。

 
   

7/1 11:25村山浅間神社結界開山の儀

 

登山口で法螺貝を吹き鳴らし、結界として張り渡したしめ縄を山伏が真剣で断ち切り、幟を押し立てる山伏達を先頭に参会者が続き旧道(古道)を登り、廻り神社に戻ってきた。富士根本宮村山浅間神社前で、英国大使などの主賓を中心に参拝の儀式が行われた。

 

7/1 11:26 村山浅間神社開山山伏

 

次に、護摩焚きへ移動し、英国大使など主賓が着座すると古式に則って儀事が行われた。四方のに向けて矢を射かけ、護摩に火が点けられた。護摩壇を覆う桧の葉からもうもうと白煙が上がった。ときどき柄杓で水を掛けて温度を下げ、白煙を起こした。

大日堂の方から、中学生ブラスバンドの「威風堂々(英国第2の国歌)」が聞こえた。

 護摩焚きが終わると、浅間神社前広場へ集まり、主催者側から挨拶があり、天幕を繋ぎ合せた会場で、直会(なおらい)の場が設けられた。酒食が用意され、地元の方々とにぎやかに談笑した。

 
 

7/1 14:10富士山環境交流プラザ「オールコックの富士登山展」

 その後、我ら7名は、ジャンボタクシーで富士宮市内の史跡を訪ねた。

富士山環境交流プラザでは、「オールコックの富士登山展」が開催され豊富な史料・写真が展示されていた。

山宮浅間神社では、富士山頂が直視できるように前方の樹木が伐採されていたが曇っていて望見できなかった。

高砂酒造へ寄ると、明治初期の廃仏毀釈の混乱から救われて酒蔵の奥に安置された仏像を拝観することができた。

人穴へ寄ると、溶岩流の表面が冷却固化したあと内部の溶岩が流れ去った空洞があって、その中に、木花咲耶媛命、源家康朝臣、藤原角行が祀られていた。付近は昭和17年に陸軍から強制移住され、墓標などが残されていた。狩宿の下馬桜へ寄ると、源頼朝が富士の巻狩りを行ったときの陣屋の流れを伝える旧家があった。夕暮れ迫る中、日蓮宗の壮大な総本山の山門を見物した。

村山ジャンボへ戻ると畠堀氏編集の資料集「ゆったり村山口登山道完登プロジェクト2010」(3部作)など多くの文書が配られた。その中には、風土記、万葉集、日本霊異記、平家物語などの古典から、オールコック、ラフカディオ・ハーン、小島烏水、冠松次郎などの著作を含んでいた。入浴の後、バーベキュー場での夕食となった。今回の参会者には、箕面の僧職の方や修行中の女性も加わって話に幅があった。前夜遅くサブリーダーが合流した。

 
 

B 7/2(金):村山古道を新六合(宝永山荘)へ標高差2000m登る

村山浅間神社前(500m)で鯛屋の御隠居さんの合流を加え9名となって出発した(5:00)。人家は絶え、林道や作業用の太い道が度々横切り、畠堀氏が作成した村山古道の地図に頼っても迷いそうな箇所が多かった。途中から樹林内の踏み跡がはっきりしてきた。

10.7.2 06j17村山古道倒木鋸切断

先頭の畠堀氏は鎌で灌木の枝や草を払い、他のメンバーは倒木を鋸で処理する手入れをしながらの歩行となった。

 富士山の世界遺産登録申請の動きの中で、行政側が村山古道の登山を禁止する動きに変わり登山路の標識が消されたが、樹林に入ると目印の布切れがところどころに残っていた。畠堀氏やほかのメンバーが、要所にくると赤布や白布を樹木に縛り付けて補強をした。

天照教社1000m)の敷地内を通って林道へ出ると、地元富士宮の料理屋さんが接待のため待機していた(8:16)。コンロ土鍋に各種珍味の入ったお粥、味噌汁、サンドウィッチ、ビスケット、チーズ、野菜、果物(スイカ等)などなど美味しい料理が用意されていた。天照教は桜田門外の変に関係した初代教長が瑞光に導かれて創建されたが、神道、儒教、仏教、イスラム教、キリスト教の良い要素を取り入れ、それらを受け入れることが教義となっており、明治維新のころ、島津久光、山岡鉄舟、次郎長などの支持を受けたことが記されていた。天照教社は下界から離れ、郵便物は配達されない(宅急便は届く)そうだ。

 

 教社前の舗装林道から樹林に入り、1ピッチ歩くと、富士山麓山の村(林間施設10601140m)があった。緑陰広場では小学校高学年の野外教育が行われていた。

 
   

10.7.2 11j04村山古道中宮八幡の跡

大渕林道を横切り、中宮八幡の跡1260m)で休憩した。オールコックは、「ここで馬と別れて、いよいよ人間の恒久的居住地ないし出没するところでない地域にふみいれた。・・・2

10.7.2 11j21村山古道中宮八幡堂横雨裂状急谷

中宮八幡の跡の横は雨裂状急谷となっていたが流水はなかった。そこを上がった女人堂跡1300mは女人禁制の境界だったそうだ。六観音跡の平地を過ぎ、スカイライン横道(1340m)に至ると女性が迎えに来ていた。鯛屋旅館ご隠居さんの同行はそこまでだった。

 スカイライン横道を横切り、傾斜が徐々に増した。スカイライン縦道1600m)を横切った。高鉢駐車場〜御殿庭コースとクロス(1740m)するといよいよ山らしい登りになってきた。雨が降り出した。雷光・雷鳴もあった。

1820mで東へトラバースし、倒木帯を横切って岩屋不動跡1870m)を確認した(14:52)。畠堀氏が、史料からその存在を知り不動沢を登って苦労の末発見したそうだ。当時、村山に知らせるとすぐにチェーンソー隊が集まり、古い木馬道跡を利用して道を拓いた。岩屋不動の下は大落差あり、大峰奥駈修行の巌頭乗り出し谷覗きと同様の修行を行った記録があるそうだ。

 
 

10.7.2 15j38村山古道笹垢離跡首なし地蔵

村山古道へ戻り登行を続けた。笹垢離跡1870mには首なし石仏が並び、不動明王像には廃仏毀釈で首を壊すとき当てた鏨の痕も確認できた。壊され散乱されたものを後で探し出して立て直した苦労が偲ばれた。

 
 

10.7.2 16j11富士山村山古道日沢を横渡

 しばらく登り、日沢を横渡2000m)で右岸に渡った。両側の斜面のかなり高い位置まで樹木がスラッシュ雪崩でなぎ倒されていた。

 
 

10.7.2 17j18村山古道倒木道

倒木帯を抜け、一ノ木戸跡2150m)に着き休憩した。狭い平地に関所の如く入山チェックを行った当時の事情に思いを馳せ、番人は水や生活物資の補給をどのようにやっていたのかと思った。オールコック著注1)によれば、「〜巡礼者たちが避難できるように一部を掘って屋根をかけた小さいが小屋ないしほら穴がつくられてあった。〜あまりにも疲れきっていたからだ。にもかかわらず、寒さとさきの巡礼者が残して行った居住者たち[蚤か虱]のために熟睡をさまたげられた。夜明けはむしろ救いになった。・・・」

倒木をくぐったり跨いだり、疲れの出てきたメンバー(女性3名含む)は、モチベーションを鼓舞しあった。

一合目小屋跡2200mは木造の小屋跡の地形だったが、二合目石室跡(2350m)と次の三合目石室跡2430m)は石組構造だったことから当時森林限界を越えていた。畠堀氏はそれらの遺構などから樹林限界がこの百年で100m上昇したことを論文で発表した。温暖化効果によるのではなく噴火活動後1万年しかたってない富士山の植物相の成長によると考えられる。

 

10.7.2 18j38宝永山荘到着(標高差2000m登了)

森林限界越えると新六合の宝永山荘2500m)が見えた。迎えの声に励まされ漸く着いた(18:36)。

 
 

C 7/3(土):富士登頂日

5時過ぎに新六合宝永山荘(気温12)を雨具着用で8名出発(小雨)。新7合目で女性2人が登ることを辞めることになり6名で登行継続。元祖七合目を過ぎ、八合目手前の岩の急坂を登った。

 

10.7.3 8j25富士山9合5勺残雪

九合目を過ぎ、九合五勺小屋の横には残雪が厚く残っていた。上へ登ると残雪に覆われていたので引き返し、ブルドーザー道を登り直した。冷雨が当り暗霧の砂地をザクザクと登った。「懺悔懺悔六根清浄」の掛け声に励まされた。呼吸が登るペースに追いつかなくなるころ富士山頂部に達した。

10.7.3 10j25富士山頂浅間神社奥社前

コノシロ池の水は凍ってはいなかったが風雨で頭が冷えて痛くなった。富士山本宮浅間大社奥宮に着いた(10:30)。暗く冷雨・霧・風の中だった。オールコックは山頂での水の沸点が84.4度ということなど科学的調査も行ったそうだ。1


 もと来たブル道を下った。九合五勺の小屋近くなって、濡れた登山道より易かろうとブル道を選んで下ったが距離が長く感じられた。しばらく下ると測候所の交代登下降用の鉄柵が見え、御殿場口登山道の赤岩小屋に出た。開業準備中だった。見通しの効かない暗い霧の中を富士登山口の方へ進み、七合目で登山道を越えてブル道をさらに長く下った。途中、1パーティと1人に会った。疲労を感じ厭になってきたころ、新六合の直下に出て宝永山荘へ戻った(13時半頃?)。先に引き返した2人と一緒になり昼食を取った。

 

新五合目のバス停へ下り、雨の中で少し待ってから迎えのタクシーが来た。スカイラインを下りながら村山古道とクロスする位置を確認した。名古屋の女性が富士宮駅で別れ、富嶽温泉花ノ湯に着いた。大型温泉・宿泊施設だった。入浴後大阪の男子が帰り、残る6名が卓を囲んだ。席上「富士山表口村山口登山道完登証明書」(富士根本宮村山浅間神社/富士山興法寺大日堂連署連印)なる書状を戴いた。ここでゆっくりするという女性2名と別れ、男子4名は身延線経由8時過ぎの東京行きに乗った

1:富士根北中生徒会作成、「村山浅間神社の今と昔」ver.2

2:オールコック著・山口光朔訳『大君の都 中』岩波文庫、1962

 




2010年 6月初旬 西丹沢檜洞丸

檜洞丸のピークにて 檜洞名物のトウゴクミツバツツジをバックに。

       
       日時 
   2010年6月初旬  
      
 場所     西丹沢 檜洞丸
       参加者   松村OB(38年卒)、斉藤(洋)、井村、長谷川各OB(40年卒)

 以下は長谷川OBの寄稿です。

井村さんの快気祝い山行:檜洞丸

井村さんの快気祝いの山登りをしようと斉藤(洋)さんから提案があり、松村先輩の参加も得て4人で丹沢檜洞丸に出かけた。参加予定者が直前になって痛風・腰痛等で不参加、結局厚生部OBのツワモノ3人に紛れ込む形での登山となった。

815分過ぎ小田急新松田駅に赤いプリウスに井村を乗せて洋任がやってきた。松村先輩とともに乗り込み、西丹沢自然教室に向かう。雲はあるが晴れて風も無く絶好の登山日和だ。


                 檜洞丸の登り 名物のシロヤシオツツジが見事です。
余裕の笑顔

850自然教室前に到着、身支度を整え905檜洞丸ツツジ新道を登る。小鳥のさえずりとまぶしい新緑のトンネルの中、沢沿いの平坦な道を歩くこと約50分でゴーラ沢出合に着く。ちょうど足慣らしに良い距離だ。
 ゴーラ沢出合よりやや急な登りが続く。にぎやかな23の女性パーティを追い抜き快調に登る。ふうふう言いながらも口の動きは止まらないご婦人方には、ただただ敬意あるのみ。
 ツツジ新道の中間点・展望遠地を過ぎたあたりから、シロヤシオ(五葉ツツジ)・トウゴクミツバツツジが見られるようになり、登るにつれて花が多くなる。まさに今が満開。緑をバックに白と赤の花がちりばめられ自然の美しさに大満足。

 標準コースタイムを少し上回って、1225檜洞丸山頂着。山頂には5〜6パーティ20人ぐらいがおりにぎやか.


 山ツツジの絶好の季節に合わせて。風流です。


 簡単な昼食の後1305下山開始したが、まもなく下りのハシゴで腿に痛みが走る。やばい!右腿が、そして左腿も攣ってしまった。松村先輩のストックを借り、先輩に後ろについていただきゆっくり下る。情けない。実は1ヶ月前に笈ヶ岳に登り約10年ぶりに脚が攣ってしまった。又攣るのではないかと心配しながら登ったのだが、頂上まではすこぶる快調で、今日は大丈夫と思った矢先だった。井村の快気祝の山登りが足を引っ張る結果になり誠に申し訳なかった。
 登りと同じ時間をかけゴーラ沢出合まで何とか下ってきた。後は平地なので脚は回復、中川温泉ぶなの湯で汗を流し、軽く打ち上げ反省会をして新松田に帰った。

下りでブレーキをかけてしまったが、久しぶりに西丹沢が輝く時期に稲門山の会の先輩同期と山登りでき、昔の話に花を咲かせながら楽しい一日を過ごすことが出来ました。

 松村先輩にはそれとない細やかなやさしい心配りと柔和な笑顔とでますます畏敬の念を深くした。斉藤(洋)さんも相変わらず面倒見が良く、脚も衰え知らずか?井村さんは入院で足の筋肉が落ちたといっていたが、昔を髣髴とさせる病み上がりとは思えない健脚振りを復活させていた。

 今回の山行の目的は達成されました。めでたしめでたし!山仲間は良い人が多いということを実感した山行でした。                                                               



10年5月下旬 気象部OBG会奥鬼怒八丁の湯

        参加者  宮野OB(35年卒)、新川OB(36年卒)、恩田、金子(弘)、竹内、胡桃各OB(37年卒)、竹内夫人、胡桃夫人
               古林OG、青木、栗又各OB(38年卒)、関根、笠原、梅崎各OB(40年卒)、関根夫人、笠原夫人、金子(治)OB
               (41年卒)、計17名
        日時    5月23日(日)、24日(月)
        場所    OBG会 奥鬼怒温泉八丁の湯  ハイク 奥鬼怒湿原は雨天のため中止

         ここ6年の間、05年の蓼科以外、この気象部OBG会は雨天にたたられ続きです。特に昨年秋の湯檜曽温泉に加えて
        今年の奥鬼怒は両日とも完全な雨天で、宿から一歩も出られませんでした。最長老の宮野OBは御祓いをしなくてはと
        話をされています。
         微妙な天候でしたら、昔培った山岳気象の高度な予報技術を発揮することが出来ますが、こうもすっきりとした雨天では
        全くの降参でした。
         幹事を務められた竹内後夫妻、関根ご夫妻には改めてお礼申し上げます。

             奥鬼怒八丁の湯は隣りの可児湯と共に古くから人気のある出湯です。野天風呂の滝をバックに記念撮影です。
東武鬼怒川温泉駅から、延々と1時間半も市営バスに揺られて、ようやく終点女夫淵に着きました。ここから宿のマイクロバスか、雨の中1時間半歩いて行くか、迷います。青木、栗又、金子(弘)、恩田OBです。 クラシックなポンチョをまとった梅崎OBと、歩いて宿に向かった、宮野、新川、栗又OB、古林OGの後を追います。
宿へは遊歩道を1時間半ほど歩いて到着しますが、梅崎OBと金子OBは、雨の中道を間違えて自動車道を歩いてしまい、1時間以上歩いても宿に近づく雰囲気ではないので、途中で宿のマイクロバスに拾ってもらい、路を間違えたことが判明しました。 宿には、先行した宮野、新川、栗又OBと古林OGが、とうに着いていました。遊歩道は上高地から横尾への路に似ていて快適だそうです。私たちは遊歩道入り口の急登で喘いでいた最中に、途中の道標を見落としたみたいです。
宿はダグラスファーの本格的なログハウスです。 宴会場所には巨大なムースの剥製があります。
樹をくり抜いた照明もなかなかおしゃれです。 階段の踊り場には小熊や小鹿の剥製や古いオガが飾られています。
八丁の湯名物の露天風呂で、三箇所あります。 正面に見事な滝を眺めながら傘を差して入ります。
夜はOBG会と懇親会、終わって夜遅くまで談笑します。関根夫人、古林OG、胡桃夫人、竹内夫人、金子(弘)OBです。 翌日は予報通り雨でした。残念ですが、当然ハイクは中止です。
喫煙部屋の 隣室の恩田OBです。おいしそうにタバコを吹かしています。   八丁の湯はオレゴン材と国産材とのミックスした堂々たるログハウスです。
   
 朝9時に宿を後にして帰京します。梅崎OBと胡桃夫人です。  女夫淵で鬼怒川温泉行のバスを待ちます。相変わらず雨は激しく降っています。関根OBです。
   
 バスを待つ笠原夫人と宮野OBです。  梅崎OB、胡桃夫人、笠原夫人、関根夫人です。
   
 雨には勝てないと新川、宮野OBと古林OG。  胡桃夫人、胡桃、栗又OB。
   
ここで自家用車で帰る関根ご夫妻と笠原ご夫妻とお別れです。 川治温泉駅では、翌日、南会津七ヶ岳を目指す恩田、金子(弘)OBとお別れします。2人とも元気です。




10年5月初旬 剱立山連峰・奥大日岳

             期日:10年5月7日(金)〜9日(日)
             行程:7日(金)  東京→越後湯沢→富山→美女平→弥陀ヶ原→室堂〜雷鳥荘
                 8日(土)  奥大日岳ピストン
                 9日(日)  雷鳥荘〜室堂→扇沢→長野→東京
             参加者:稲吉、斉藤、杉村、金子各OB(41年卒同期)
            
             剱立山連峰の奥大日岳は主稜線から遠く外れているため、年間を通じて訪れる人も少なく、剣岳の格好の
            展望台にも係わらず室堂の喧騒からも無縁です。雪で埋まったかもしれませんが出発地からは一本も道標とも
            出会うこともなく、長次郎の時代から今に至るまで大日岳と共に、文明の圏外で孤高に聳えている野性の岳の
            ようでした。
             この時期北アの岩の稜線は、雪が風に飛ばされて雪と岩が混合していますが、大日岳や奥大日岳は日本海を
            越えてきた湿雪が最初にこの山稜にぶつかり、その豪雪によって巨大な雪庇が形成されます。遠方から見た時、
            雪面に刻まれた筋はトレースかと喜んでいましたが、登るにつれてそれはトレースどころか深い亀裂(クレバス)で
            あることが判りました。
             奥大日岳へは、背に絶えず剱を感じつつ、ルートを捜しながら稜線に横に走るこれら大きな亀裂を1つ1つ越え
            つつ登ります。大した休憩も取らず往復に9時間近くも要しましたが、極めて充実した岳でした。  
    
             尚、素晴らしい画像の大半は斉藤OBが撮影したものです。

            
鶴翼を拡げるがごとく剱をバックに。奥大日岳ピークにて。
初日
 行きはアルペンルートを使わず、越後湯沢から、ほくほく線を使って富山まで。昔に比べると富山はとても近くなりました。昔懐かしい千寿が原、美女平を経由して弥陀ヶ原、天狗平を経て室堂に着きました。バス停から一歩外に出ると猛烈な風雨で、傘を忘れた私を除いて他の3人の傘は、いっぺんにオシャカになって使用不能になりました。  中国や韓国から来た人は皆泣きそうな顔をして気の毒です。タウンシューズで来られるほど便利になったといえ、ここは5月の北アのど真ん中なのです。風雨の中、雷鳥荘に到着しました。
 夕方、予報通り西の日本海方面が晴れて来て、明日の好天が約束されます。雷鳥荘の温泉からは奥大日岳が正面に望まれます。
2日目
奥大日岳は剱御前手前から派生する長大な尾根上にあり、室堂から見ると手前が奥大日岳、奥が大日岳と名が逆になり、いずれも巨大な雪庇が張り出す岳として有名です。立山三山から離れているため、訪れる登山者も少ない岳です。ルートは対岸の新室堂乗越に登りそこから平らな尾根を辿った後、2つの無名峰と奥大日の最高点ピークを越えて奥大日ピークに達します。標高差は大したことはありませんが、距離が長そうです。
さて一旦雷鳥沢出合まで下り、対岸の新室堂乗越まで上がります。新室堂乗越までは薄いトレースがありそうです。 奥大日岳へは新室堂乗越とを最低鞍部の室堂乗越を越えて2つの無名峰を越えて、最高点のピークを経てその奥に、奥大日岳があります。
宿を一緒に出たスキーとスノーボーダーの人たちが作ったシュプール以外はトレースのない、まっさらな斜面を雷鳥沢出合を目指して下ります。斜面はカチカチでアイゼンが良く効きます。
雷鳥沢を登るスキーの3パーティー以外、眼の前のこの広大な空間に登山者は見当たりません。新室堂乗越に着きました。ここからは剱御前だけで剱岳はまだ見えません。 彼方に毛勝山塊が眼に入ってきました。この新室堂乗越からの眺望は,、見慣れた立山周辺からのものと違って全く新鮮です。
登下降の少ない小ピークを越えてたどると室堂乗越です。昔はここから地獄谷へ下降していたようです。 背後に2つの無名峰と奥大日の最高点がせりあがって来ました。
待望の剱が顔を出してきました。 奥大日最高点ピークも中々迫力があります。
今までは前哨戦で、ここから本格的な登山が始まります。ここからはピッケルの世界ですので、ストックはデポします。最初の関門は背後に聳える第1の無名峰です。夏道は巻きますが、この時期は当然稜線通し進みます。ピーク直下が急そうです。
抜けるような蒼い空と岩と雪、5月の岳の喜びです。 最初の無名峰を越えると、稜線は雪庇が出ているため反対側をトラバース気味に進みます。
最初の無名峰を越えると、第2の無名峰への登りになります。ここで休憩です。 剱御前北から派生する尾根の向こうに本格的に剱がその全容を現し始めました。
第1の無名峰までは古いトレースがありましたが、そこからは全くありません。第2の大きな無名峰を眺めながら登路をさがします。 尾根上には大きな亀裂が縦に何本か走っています。跨いで越えられるのもありますが、大きな亀裂は迂回します。この亀裂はまだ序の口でした。
第2の大きな無名峰は直登しようと登り始めました。余りに急でアイゼンを蹴り込まないと足場がずれてしまいます。下を見ると滑落したら立山川まで500mは一直線です。直登は諦めて一旦下り、ピークの裾を大きく回りこみ登路を捜しました。 背後を大きく回りこむと、斜度が落ちた雪面がピークまで続いていたので、そこを登る事にしました。トレースの無い岳は苦労します。この間、勿論写真はありません。
第2の無名峰から奥大日岳最高点ピークを望みます。雪面の筋はトレースでは無く亀裂であると知ったので、縦でなく横に走った亀裂が多い斜面を見てやっかいそうな登りになると感じました。
予想した通り、この最高点の登りはやっかいでした。最初に現れた雪壁は雪面に正対してピックを打ち込みつつ下りました。 亀裂の外側は登り易いのですが、雪庇が張り出しているためそちらには寄れず、反対側の這松際は、シェルンドが出来つつあり陥没しそうで寄れません。
登路を振り返ります。縦の筋はトレースでなく亀裂です。天候次第ですが、奥大日はもっと早い季節の方が雪が安定していて楽そうです。
奥大日の登りで横の亀裂の通過で苦闘していた時、この山域で我々だけとと思っていたら後ろからスキーをくくりつけた登山者が一人登って来ました。余りにもエネルギッシュな人なので、先に行って貰いました。 ようやく奥大日最高点のピークに近づきました。このピークは登らず、稜線直下を長くトラバースします。滑れば称名川まで500mは落ちまてしまいます。目指す奥大日岳はまだ距離があります。
ようやく奥大日岳のピークに着きました。先行して貰ったエネルギッシュなスキーヤーは、室堂のホテル立山に勤めている菊田さんという人でした。東京農大山岳部OBです。56歳という年齢をお聞きして驚きました。エネルギッシュな登り方はとてもその年齢には見えません。大阪在住でしたが、お子さんが仕上がったため岳で暮らそうと勤めていた会社を早期退職しホテル立山に転職したそうです。月2回は大阪に帰るそうですが、ずっと岳暮らしの素晴らしい人生を送られています。
 
 
 奥大日ピークからの剱の勇姿です。ここから見る剱は左に長大な早月、右に別山までの稜線を従え実に堂々としています。剱正面の谷は東大谷でピークに突き上げる白いルンゼは中俣本谷です。右上の平蔵の頭したには右からG1、G2、G3、G4のリッジが並んでいます。中央左に落ちる中尾根の左側は東大谷左俣で上部に、駒草ルンゼが見えます。
奥大日岳の古い三角点です。柴崎芳太郎以前の明治26〜27年にかけて立山に三角点を設置する際に付けられたのでしょうか。背後は大日岳です。 剱を眺めながらの豪華な昼食です。ピークは風が冷たく手袋をしたまま食事します。長大な早月を眺めていると、杉村OBと若い頃に登っておいて良かったなと想います。その頃は小屋が無く2,600mで幕営し平蔵を下りました。斉藤OBは昨夏挑戦しましたが荒天で敗退しました。
下降に入りましたが、登りに比べると下降の方が雪庇の様子が良く判り、ルート選定も楽です。なるべく這松寄りにルートを採りますが、縁はシェルンドが形成されていることもあり陥没するため、なるべく登りのトレースを辿ります。2度ほど大きな踏み抜きに遭遇しました。1度目は片足が股深く陥没しどうしても足が抜けず、3人がかりでピッケルで雪を堀ってやっと抜くことが出来ました。単独行ではヤバイ事態でした。2回目は再び片足を踏み抜いたとき、眼の前にある薄くなって出来た小さな雪穴から3m近い底が見え、慌てて這つくばって対面積を増やして、もう片足の陥没を防ぎ杉村OBに遠くに回って貰って引き上げて貰いました。
この稜線には横に走る亀裂が何本もありました。跨げる亀裂(クレバス)は問題ないのですが、幅の広い亀裂は雪が陥没した底まで降りて越さなくてはなりません。浅いものでも1m以上、深いものは2m以上あり、それ以上深いものは越えられないため大きく迂回します。亀裂の登り下りにはピックとアイゼンの前爪を叩き込みますが、空いた片手は雪を押して指を差込みます。家で山行の準備をしている際、新年会のオークションで手に入れた小型のバイルを持って行こうか、悩みましたが余りに大袈裟なので止めましたが、やはり持参した方が楽でした。私たちは若くないので急な下降でバランスを崩したら復旧はできません。若い時みたいに駆け下りたい衝動に駆られる時もありますが、ころんで尻餅すらもつかぬよう見得を捨てて一歩一歩慎重に下ります。
ようやく奥大日岳を下り終えました。2回の踏み抜きで足がつり始めました。事前に筋トレを充分に行って来たのに、それ以上に足に負荷がかかったのでしょうか、がっかりします。まだまだ予断を許さない急な下りが控えているため、薬を飲んだり塗ったりします。
このピークの下でホテル立山の菊田さんが、スキーを装着していました。背後の奥大日の左斜面はスキーで滑降したら、滑落の危険があったため、尾根上を歩いて下ったそうです。
 広い斜面の2511mのピークは急なため直登を断念し引き返し、ピークの裏側に回って登路を求めましたが、菊田さんの素晴らしいスキーの妙技に見惚れて下っていたら、登りで間違えて引き返した直登ルートに入ってしまい、慌てて引き返しました。菊田さんはスキーで滑降しましたが、我々がこの斜面で滑落したら500mは立山川に流されるので、より安全ルートを求めて下りました。
 頭の片隅に残っていた最後の関門である、背後の急な無名峰を下り終え、無事危険地帯を脱しました。このピークの下りも滑落したら立山川に500mは流されてしまうでしょう。
デポしたストックを回収し、新室堂乗越までゆったりとした稜線漫歩が続きます。新室堂乗越で剱とおさらばです。 ここから別山乗越へ続く尾根を望みます。この乗越は剱・立山連峰の屈指の展望台です。
立山川を見下ろします。ここから馬場島までスキーでは20分で行くでしょう。田部重治は長次郎と共にここを辿った紀行があります。 奥大日を一瞥して新室堂乗越を後にします。
雄山、一の越、浄土方面です。昔杉村、秋野OBと一の越からスキーで滑ったことを思い出しました。さて雷鳥荘は台地の上にあり、最後に登らなくてはなりません。 乗越からは真っ直ぐ雷鳥沢の底まで下ります。スキーの人たちが何人か乗越まで上がって来たのでしょうか、朝無かったトレースがあります。

3日目
事前計画では雄山ピストンも考えていたのですが、皆この時期の立山三山は登っているし、昨日は9時間近くのアルバイトのため、満腹状態だったためアルペンルート経由で長野に出て帰京しました。


10年 3月下旬 硫黄岳
     
      メンバー : 稲吉、斉藤、杉村、金子、各OB(41年卒)
      期間   : 10年、3月28日(日)29日(月)、2日間
      行程   : 28日、新宿→茅野→夏沢鉱泉
              29日、夏沢鉱泉〜オーレン小屋〜夏沢峠〜硫黄岳中腹〜夏沢峠〜夏沢鉱泉→茅野→新宿  
 

 雪の不足を気にしながらも、うららかな春山を期待した硫黄岳は、季節はずれの大寒気団が南下して、八ヶ岳には珍しいドカ雪が降り、しんどいラッセルと年寄りには辛すぎる風雪の山行でした。
 
 スノーシューを装着しても夏沢峠へは3時間を要し、峠からの硫黄は風雪真ッ最中で、深いラッセルの急登で足にダメージを受けた後、風雪で視界が悪い岩混じりの広い斜面で、風の音に負けないように大声でそっちだ!あっちだ!とルートを捜しながら辿ります。

 歳をとるとそんな集中力も持続せず、まだ余力を残したまま、いさぎよく撤退します。だんだん雪山が甘くなくなって来ました。
 
夏沢鉱泉は、茅野駅まで送迎してくれるありがたい山の宿です。標高2,000mにあり、途中雪上車に乗り換えますが、1歩も歩かず八ヶ岳の山懐に入れるのです。日曜の夜のため、宿泊は我々だけで、熱い鉱泉においしい食事、それに静かな夜が提供されます。 大寒気団の南下で夜通し雪が降り続きました。鉱泉の人のすすめでスノーシューを借りて(1人@1,000円)出発します。未だ雪がパラついています。途中汗をかく恐れもありますが、気温は低いので完全装備を装着します。
鉱泉の前から、トレースが完全消えていました。15分ずつラッセルを交代して進みます。 登山道は上の写真のように全くトレースが消えてしまっています。スノーシューでも足首位まで潜りますが、新雪のラッセルのためそれほど苦になりません。
オーレン小屋に着きました。結構時間がかかりました。腰を降ろそうと07年の冬に来た時休んだベンチとテーブルを捜しましたが見当たりません。きっと雪の下に隠れてしまったのでしょう。 夏沢峠の道は、完全な樹林帯のため、風が吹かないため助かります。オーレン小屋を過ぎても、積雪量は変わらずリズムカルなピッチでゆっくりとラッセルを続けます。
トップは張り出したシラビソの枝の雪を事前にストックで落とします。そうしないと通過する際、枝から雪が落ちてきて首筋に入りとても冷たい想いをします。 ようやく夏沢峠に着きました。予想通り峠から硫黄は風雪が渦巻いています。行けるところまで行こうと、そのまま峠から硫黄に向かい、樹林帯の際でスノーシューとストックをデポしアイゼンに履き替えます。
   
 樹林を出た疎林帯から猛烈な風雪が襲ってきました。処女雪に足を蹴り込んでステップを刻んでも、軸足が流れてしまう不安定な雪質の急斜面を直登します。多分夏道はジグザグと思いますが、トレースも見当たらないのでひたすら直登します。 前回もそうでしたが硫黄の岩の広い斜面はルートファインデイングが難しい所です。岩に打ち込んだ夏道のアンカーを目印に辿りますが、本数も少なくしばし迷います。 ここから右に回り込めば、後は火口壁を巻きながらピークに至りますが、更なる西からの烈風が渦巻いているため、この地点で撤退します。
   
 登りでは滑落したら止まらないように感じた岩と雪の斜面を見上げます。下りはルートが見えていたため登りに比べて比較にならないくらい楽でした。 スノーシューのデポ地まで戻り、スノーシューをザックにくくりつけて、アイゼンのまま下ります。
   
 冬は樹林の横1m右位が火口壁の際ですが、今の時期は大きな雪庇が張り出しています。怖いのでなるべく樹林寄りを歩きます。 夏沢峠に着きました。スノーシューを手に持って下った斉藤兄も 、ここでザックに装着します。
   
夏沢では休まずオーレン小屋まで一気に下って来ました。ここで遅い昼食です。寒さのためお赤飯のおにぎりも凍っていました。 ようやく鉱泉に戻ってきました。ヤレヤレです。雪まみれの一日でした。




10年3月中旬 北八つ天狗岳・現役同行山行

   笠原OB記


   黒百合平〜天狗岳の現役山行6名に付加的参加したので報告します。
     

   メンバー:山の会現役;安食(2年)、筒井(3)、宮沢(2)、笹川(1)、町田(学院3)、
        川島(同)+OB;笠原(
65卒)

     期間:’10322日(月)〜23日(火)

     行程: 茅野=渋の湯−黒百合平−中山峠−天狗岳2645.8m−中山峠−黒百合平−渋の湯=茅野

             

天狗岳〜横岳 渋の湯、登山準備

3/23(月)晴れ、茅野から渋の湯へ向かうバスの車中からの眺め。左から、中山〜中山峠〜天狗岳~硫黄岳(白い)〜横岳〜右の赤岳へつづく

渋御殿湯1880mの上で準備、現役6名、我は一足先に出発。
黒百合平へ向かう路 唐沢鉱泉分岐

21,22日も降雪あったそうだ。一旦日射で溶けて凍った上に数センチの新雪があった。連休の月曜日とて森の木漏れ日の中を下山者多くと行き交い、子供連れの親子もあった。

黒百合平〜唐沢鉱泉分岐2200mかつて、正月に大河原峠から中山峠を経由してスキーで下ってきたときのことを想い出しつつ緩い登りを上った。今回はトレーニングも込めてワカン、トランシーバーなども持ち、荷重22kgは久しぶり。
黒百合平手前 黒百合平の南斜面で雪上訓練

現役諸君が追いついた。振返ると天気晴れ渡り中部山岳等の諸山が眺められた。黒百合平2410mに着いて、現役の天幕2つに並べてツエルトを張った。

黒百合平南側の北に面した雪面で雪上訓練。雪が軟らかく滑らない。

滑落停止訓練 アイゼンワーク登り訓練

滑らないので、転げまわるようにして、種々の体勢から訓練した。アイゼン無/装着の両方行った。

アイゼンワークは、登りの次にトラバースも行ったが、足の置き方などリーダーの教え方は丁寧だった。
アイゼンワーク下り訓練 黒百合平全景(ヒュッテと幕営地)
黒百合平の幕営地に我らのテント3つが見下ろせる。その右側が我用。

幕営に快適。

雪層断面チェック訓練 雪柱強度チェック訓練

雪層を馬蹄形に掻き出しつつ中央部を柱状に残し、掻き出すときの抵抗の変化から雪層間の接着強度をチェックする訓練を行った。

中央に残した雪柱に横の力を与えて抵抗する強度をチェックし、雪層断面の各所に手を突っ込む抵抗の変化から雪層間の強度不均一を知る訓練を行った。

帰幕後天気は下り始めた。現役の天幕へ行き、夕食にカステラと煮物(人参、ブロッコリー、里芋、ウインナー)を差し入れて談話。山の会歌集も持参したが歌う習慣がなかったとのことで引っ込めた。夜、雪霧が舞う風でテントの中もバタバタと霜が舞い顔に降りかかった。気温は思ったほど下らず−7℃までだった。

3/24(火)雪霧、風、他のパーティは下山目覚まし設定ミスや朝食の作りすぎで現役より少し遅れて出発。中山峠から稜線つたいに天狗岳へ向かうが視程2030m風はかなり強く、平均的には風速15m前後か、雪の小片が目に刺さる。時に身体がふらつくほどの風があり雪霧濃くなったので頂上手前で現役パーティの戻るのを待った。

天狗岳から中山峠へ向かう 中山峠へ向かう、リーダー
現役に会い共に下った。

雪中のリーダーシップが素晴らしく頼もしかった。

天幕撤収後、黒百合平からは一緒に下り、渋御殿湯に浸かって茅野駅で解散した。私の記憶力では全員の顔と名前が一致しないままだったが、次の機会を期待して別れた。




10年2月下旬 高峰山、水ノ塔山

 参加者:金子OB(41年卒)友人、計2名
 期日:2月28日(日)、29日(月)
 行程:28日、自宅〜高峰温泉〜高峰山往復
     29日、高峰温泉〜水ノ塔山往復〜帰宅

 高校ワンゲルの岳友と40年ぶりに山行を共にしました。卒業して間もなく2人で5月の穂高に行った以来です。以前仲間たちと会ったときは、お互い山を再開していなかったのですが、昨年秋、鹿島槍山行の際、種池小屋前で偶然再会し、また同行しようと別れ、山の温泉で昔語りでもしようと今回にいたりました。彼は大学時代は山学同志会に属していましたが、日和田山のゲレンデや北岳バットレスなど高校時代の仲間と共に行きました。一番残念だったのは大学卒業の3月、卒業山行として2人で利尻岳を計画していましたが、都合でどうしても同行出来ず、結局彼1人で利尻岳を登頂しました。
 昔の岳友との40年ぶりの山行でしたが、岳友は私より体重が30s近く少なく維持しているため、雪の踏み抜きも少なく下りも楽そうでした。
今朝までの新雪が、強い西高東低の季節風のため地吹雪になって吹き荒れている中をスノシューで高峰山に登りました。高峰山は4年前、同じ時期黒斑山に登った翌日、途中まで登り荒天のため引き返したことがありました。地吹雪が吹き付けるため、めったに被らない冬帽を慌てて取り出して被りました。 高峰温泉は日本秘湯の会の会員宿でランプの宿というふれ込みだったので、山小屋レベルの宿と想って行きましたが、オール電化の浴衣まで用意してある快適な宿でした。常連客も多いとのことで、山に関係の無いお年寄りも雪を楽しむために宿泊しています。
夜は星の鑑賞会が開かれました。大型天体望遠鏡でスバルやオリオン、シリウスなどを眺めます。満月に近かったせいか、想ったよりは星は少なく、昔、剱沢や大樺沢で見た星の数に比べると、随分少なくなったもんだと岳友と嘆きあいました。地球もこの40〜50年の間、大分変わってきてしまいました。 翌日は水ノ塔山を目指します。この日も季節風の吹き出しが強く、樹林帯を出て、所々通過する風の通り道に差し掛かると、下から煽られて飛ばされそうです。それでも視界が良いので気が楽です。水ノ塔山は黒斑山の下の車坂峠、湯ノ丸山の下にある地蔵峠の間に連なる稜線で、水ノ塔山、東籠ノ塔山、西籠ノ塔山の3つの山が並んでいます。
   
水ノ塔山ピーク下で 先に行かせて貰ったパーティが、登ってきました。ガイド登山ですが、ガイドも交えて平均75歳だそうで、皆さん昔登られていたような方々でした。歳を重ねてもこの浅間の外輪山は雪山を楽しめるフィールドです。 高峰温泉では毎日スノーシューを無料レンタルして高峰山にツアーを行っています。参加者を見ると、大半の人がトレッキングシューズとゴアの雨具の無雪期の装備です。誰でも気軽に雪山が楽しめる、良い時代になったものです。




10年2月中旬 伊豆ヶ岳
  
      期日:10年2月14日(日)
      行程: 西武線正丸駅から伊豆ケ岳往復
      参加者:秋野、小田、斉藤、杉村、金子各OB(41年卒同期)
   2月は 首都圏でも1日おきに雪が降り、天気が悪かったりメンバーの都合が合わなかったりして、ようやくこのハイクが実現しました。
 それでも前日に雪が降り、西武線の車中から見た景色はまるで雪国に向かうようでした。
 奥武蔵の山は川越高山岳部OBの斉藤OBと浦高ワンゲルOBの金子にとっては、昔はホームグランドでしたが、長い間足を踏み入れてはいませんでした。旧正丸峠の上に聳える標高851mの伊豆ケ岳は奥武蔵の盟主で人気の高い山です。

 今回は駅からいきなり雪道が始まり、標高は低いとはいえ往復4時間半の行程は中々楽しめ、短いながらも充実した山行でした。こういう山でしたら、幾つになっても楽しめると想います。
 
駅を出ると直ぐ雪道が始まります。北面は凍結していて滑りますが、日曜日のため道路に面した家のご主人たちはエンカルを撒きながら、除雪に努めています。 人家が終わり暗い谷筋の登山道に入りました。杉の梢の雪が溶けて雨のように降りかかります。
 暗い谷の道を辿り、最後の階段状の急登を終えると、いきなり旧正丸峠の茶屋の横に出ます。旧正丸峠は、正丸トンネルが出来てから街道の峠としての役割を終え、観光用の峠としてひっそりと存在しています。 登り始めは晴れていましたが、峠に出てみると暗くなり、気温も低下してきました。急に冷えてきたので上着を着込み、無人の茶屋の脇で 立ったまま昼食を採ります。少し早めでしたが天候も悪化してきたので、ここで軽アイゼンを装着しました。
 伊豆ケ岳への稜線を辿って行くと、懸念された天候も悪化せずに悪いなりに安定して来ました。途中小高山を経由して峠から約1時間ほどで伊豆ケ岳のピークに着きました。 ピークでの眺望は昔は もっと良かったと想われますが、樹が生長して視界を遮るようになったのかも知れません。ピークでゆっくりと2度目の昼食を採り下山にかかります。
   
 伊豆ケ岳には男坂と女坂があり、男坂の鎖場は名物でしたが、今は落石回避のため通行禁止になっていて、撒き道の女坂を上下します。男坂、女坂といえば日和田山にもありました。この分岐で正丸峠経由でなく、谷に下り直接麓を目指します。 正規の谷道でなく近道を下りましたが、あまり踏まれていない場所もありました。ようやくここふたご岩で正規の登山道と合流しヤレヤレです。こっからまもなくで道路に合流して正丸駅に着き、駅前のたった1軒の店で乾杯しました。