11年10月 安達太良・磐梯・西吾妻
 
 
     笠原OB記

時期】111027日〜29

【行程】27日:東京⇒郡山⇒奥岳−安達太良山−鉄山鞍部−峰ノ辻−くろがね小屋(泊)

    28日:くろがね小屋⇒八方台−磐梯山−八方台⇒白布温泉(泊)

    29日:⇒新高湯温泉−天元台−中大巓−西吾妻山−新高湯温泉⇒米沢(解散)

【メンバー】:広瀬、笠原、各OB(敬称略)

 
 
1027日(木)晴れ

 大分の広瀬は前夜空路東京泊。新幹線で郡山着。レンタカーで奥岳。ゴンドラを降り11:40登行開始。しばらく行くと安達太良山頂(乳首)1700mが見え、道は緩く観光客も交え賑やかだったが紅葉には遅かった。

乳首近1620m巻道分岐 広瀬

 乳首状に見えていた安達太良山頂は高さ約20mの溶岩ドームからなっている。

 
 .

乳首三角点1700m 広瀬・笠原

 頂きへ13時着。背景は鉄山から沼ノ平を囲む火口壁。この後空晴れて周囲の美しい景色を撮ったが割愛。日射を受けた寒暖計が8℃を指していた。記念撮影の後ろの碑(雪残)に「八紘一宇」とあるが8つの方位(世界)」を「一つの家のようにすること」の大意だそうだ。

 
 

鞍部1640mから沼ノ平越しに秋元湖

 矢筈森を越えると沼ノ平が見えてきた。沼ノ平火口では、過去に硫黄鉱山で72名死亡の災害があったが、その後土砂の流入で埋まり平坦地となっている。裏磐梯の堰止湖「秋元湖」が見える。

 
 

沼ノ平の噴気、遠景船明神山

 登山道の近くまで白煙が見られる。沼ノ平では、19979月に14名パーティー中4名死亡の事故(硫化水素ガス)があったことを思うに、火山活動の進行中を感じた。

 
 

矢筈森肩1660mから鉄山に向かう広瀬

 乳首より高い鉄山1709m安達太良連峰の最高峰は箕輪山1728m)を目指したが、時間余裕なく引き返すことにした。鞍部から両側斜面に向かって立入禁止の標識が立てられていた。荒廃した地形と気候での維持の困難さを想った。

 
 

馬ノ背からくろがね小屋

 沼ノ平から稜線を挟む東斜面も草木少なく荒れた斜面がくろがね小屋へ続いていた。くろがね小屋(15:17着)では素朴な温泉に3回浸かった。泊り客約10名で食後ストーブを囲んで談話した。

 
 

1028日(金)晴れ

6j11 くろがね小屋1346mから馬ノ背 広瀬

 朝風呂と朝食を済ませて出発(6:11)。緩い下りを奥岳の車へ戻る(7:50)。R459/R115を走り、ドライブイン高森で果物等を仕入れた。

 
 

こがね平から磐梯山1819m

R459で裏磐梯を通り、磐梯山ゴールドラインを登る途中のこがね平駐車場1110mから仰ぐ磐梯山は変化に富んでいる。崩壊壁の上に噴煙(蒸気)が望見できた。八方台登山口に駐車し出発(10:05)。途中まで観光客も多い。

 
 

中ノ湯に向かう噴気水溜り

 昔は荷上げの車も使った緩い道を中ノ湯跡に至ると水溜りに噴気がブクブクと泡立てていた。中ノ湯の建物は廃墟と化していた。

 
 

 中ノ湯上から吾妻連峰

 中ノ湯からの登り(1400m)で吾妻連峰が見えてきた。左のなだらかな凸部が最高峰の西吾妻山。右へ東大巓〜東吾妻山へと連なる。(標高1490mからの写真は後掲)さらに山腹を登り、お花畑展望台分岐を過ぎ、弘法清水小屋前でラーメン休憩をとった。

 
 

磐梯山頂1819m 広瀬

53年前に従兄弟達と来た時には弘法清水から上は植生が低く見通しが効いたと記憶するが、弘法清水からの急路は樹木に囲まれていた(温暖化現象か?)。日陰に雪の残る頂上に着き(13:10)記念撮影後、岩上で蜥蜴(昼寝)をした。

 
   

 磐梯山から安達太良連峰、中央沼ノ平、右乳首

 東方に昨日歩いた安達太良連峰が見えた。右に乳首、中央に鉄山と沼ノ平が見える。秋の快晴なのに大気の透明度が及ばず、西方(大陸?)の大気汚染物質が漂って来ていると感じた。

 

 磐梯山から櫛ヶ岳、秋元湖、吾妻連峰

 北側の崩壊壁に連なる櫛ヶ岳の向こうに裏磐梯の崩壊堆積地域が広がって見えた。磐梯山は山体崩壊と岩屑なだれで形成され複雑で特徴ある地形を呈している。約1万年前の噴火以降の溶岩噴出はないが、188821)水蒸気爆発では小磐梯が崩壊し、発生した爆風と岩屑なだれにより北麓の集落が埋没し477人死亡の大災害となった。磐梯山は「日本の地質百選」に選ばれている。

 
 

 磐梯山から猫魔ヶ岳1404m、飯豊連峰

 西を眺めると中景に猫魔ヶ岳があり、遠く飯豊連峰が望めた。南方の猪苗代湖は霞んでいた。9万年前頃と5万年前頃の火砕流堆積物が川を堰き止め、古猪苗代湖が出現したそうだ。

 
 

下り1490mから吾妻連峰

登路の標高1490mに戻ると、二段になった崩壊壁下段の頂部に白煙が出ていた。こがね平駐車場から見えていたものと思う。その向こうに銅沼(あかぬま)が見え、裏磐梯の桧原湖、小野川湖、秋元湖へと展開し、遠方に吾妻連峰が広がっていた(登り時より透明度が相対的に良くなった)。八方台へ戻り、噴火記念館を見学し、桧原湖畔を走り、白布峠で夕暮れを迎え、白布温泉の中屋別館不動閣に投宿した。

 
 

1029日(土)

 天元台高源の夏山リフト(3基)は数日前に終了していたので反対(裏磐梯)側のグランデコルートも検討したが、天元台まで車を使えば可として白布温泉を拠点とした。しかし、天元台へ上がる作業道も近時の交通事故により一般車進入禁止となっていた。宿の計らいで新高湯温泉の駐車場を使わせてもらえることになり、宿を5時出発した。

 

天元台下リフト1330m 広瀬

 新高湯温泉に駐車し5時半出発した。懐電で登る急坂は暗霧で長く感じた。天元台の平坦地に上がると天元台ロッジやペンション村が並んでいたが人気なく静かだった。第1基目のしらかばリフトのゲレンデから登り始めた。朝日は未だで寒い。

 
 

 

天元台上リフト上方、傾斜きつくなる

 第3基目つがもりリフトの下を登った。途中から傾斜がきつくなった。

 

北望台1810mから朝日連峰

リフト終点北望台のはこの辺りではかなり高い。北北西に朝日連峰。右に間を置いて月山が朝靄の上に顔を出していた。その右肩に鳥海山の新雪を望めたが距離150kmに霞んでいた。

 
   
 

北望台1810mから飯豊山

 西北西に飯豊連峰がはっきりと見える。一部に雪の白さがある。北北東には蔵王連峰が広がっていた。

 
 

中大巓南巻道から梵天岩方面、左に西吾妻

 かもしか展望台1935mの露岩から中大巓を廻り込むと西吾妻方面が見えてきた。梵天岩の台地が大きく、左肩に少しだけ西吾妻山が覗いて見える。道は最短の分水嶺を通らず東側に一旦降りて巻き、水場の大凹を経て梵天岩に向かう。

 
 

中大巓南木道、ラーメン休憩トカゲ 広瀬

 途中の眺めの良い木道上でラーメン大休憩。気持ちの良い陽光の下で至福のトカゲ。

 
 

梵天岩から一切経〜東吾妻〜安達太良、中景:中吾妻 広瀬

 梵天岩2004mの露岩帯に上がり東を見れば、10km先の一切経山〜東吾妻山まで吾妻連峰が重なって見える。中景の中吾妻山1930mの右に安達太良連峰も見え、ここは東北南部を見渡せる上等の展望台だ。一切経山の右肩には噴煙(噴気)が見え今も火山活動を続けていることが分る。1893年(26)の大噴火は磐梯山の水蒸気爆発の5年後になる。近年では1977年と2008年に大きな活動があったそうだ。

 
 

梵天岩2004mから西吾妻 広瀬

 梵天岩から行く手の南を見れば、西吾妻山は未だ遠く大きい。

 
 

西吾妻山頂2035m 広瀬・笠原

 西吾妻山頂に至った(11:20)がなだらかな平地で樹木に覆われ見晴らしが効かず、地面も湿っていた。

 
 

西吾妻小屋近から磐梯山と会津の山々

 山頂から西へ少し下ると樹林が開け、西吾妻小屋近くから南を見れば、昨日の磐梯山やその背後に会津の山々が望めた。

 
 

西吾妻小屋1980m

 西吾妻小屋はなだらかな広い高原にあって気持ち良さそうだ。ここから水平に進み、天狗岩の露岩を登ると梵天岩へ続く。

 
 

中大巓南1885mから東大巓〜一切経(噴煙) 広瀬
 帰りの木道から一切経山の噴煙がくっきり見えた。往路を戻り、夏リフトを下ると保守作業を行っていた。スキーリフトとして動き出す1ヶ月の保守期間に我らはやって来たのであった。

 

白布温泉に着いて広瀬がカメラを紛失したことに気付き、新高湯温泉の駐車場まで戻ってみたが見つからず、途中のゲレンデで仰向けに引っくり返って休憩したりおしゃべりしながら下山する途中に落としたようだった。

日暮れの米沢でレンタカーを返し、吉沢OBが経営する米沢牛・山懐料理 吉亭を訪問した。江戸時代からの米沢織織元屋敷をそのまま使った有形文化財建造物登録の由緒あるお座敷で、美味しく御馳走になった。吉沢OBと女将さんを交えて談笑し、笠原の出身地五泉との縁(えにし)を聞くなどに、もっとゆっくりしたかったが、天童へ行く予定で中座した。広瀬も翌日の予定があり東京へ向かった。





11年9月中旬 立山
 


【日時】9月19日、20日
【行動】室堂〜雷鳥荘〜雄山ピストン(台風のため      中止)
【参加者】秋野、稲吉、小島、斉藤、杉村、沼田、
      金子、(41年卒同期)各OB7名

金沢在住で病気療養後の沼田OBと室堂で落ち合い、共に久々に山に登ろうと雄山山行を計画いたしました。
しかし沖縄付近で迷走していた台風が、突如巨大な台風となって北上したため、雄山どころか雷鳥荘から脱出するのが精一杯な山行になってしまいました。初秋の天空の中に身を置く山行を期待しただけに残念な気もしますが、他に3組の客がいましたが、ほぼ貸切状態で消灯時間の無い温泉付きの山荘の個室で、沼田OBを交え仲の良い同期同志、酒を酌み交わしたでも楽しく価値ある山行でした。
帰る日の朝の朝食風景です。外は暴風雨が音を立てて吹きまくっています。9月の岳は夏の高気圧と秋の高気圧がせめぎ合い不安定です。 幼児を交えた3組の客がいるため、朝九時に小屋の人が前後に歩いて室堂まで誘導してくれることになりました。夜中に夢うつつの中、暴風雨でミクリガ池の中に飛ばされたそうになったので、何となく気分的に助かりました。




11年9月初旬 甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳


日時:9月8日、9日、10日 

行動:8日、高遠城見学〜北沢峠(泊)
    9日、仙丈ヶ岳ピストン
   10日、駒津峰ピストン

メンバー:金子(41年卒)他1名

9月初頭に予定していましたが、台風襲来の
ため1週延して行いました。紀伊半島に大きな被害をもたらした台風は、南アルプス周辺にも大きな影響を与え、野呂川林道は期間中ようやく開通しました。
甲斐駒から 仙丈ヶ岳を望む  



台風一過の晴天を期待した山行も、2日目の仙丈ピストンの日は、雨後晴れの予報が外れ終日雨の中の登山になってしまいました。
甲斐駒ピストンの日は、同行の友人は甲斐駒に登りましたが、私は前日の疲れのため早々と駒はあきらめ駒津峰で引き返しました。
                        駒津峰から甲斐駒を望む
 8日(木)
   
   
 高遠城はゆっくり見る機会が無かったので、今回は城下にある伊那市立歴史博物館も併せてじっくりと見学しました。城址には何も残っていませんが、石垣とコヒガンザクラの古木だけで充分です。  戸台からは北沢峠まで伊奈市営バスが運行しています。平日なので登山者は少ないと思いきや、登山客が大勢いて3台も増便しました。広河原からの野呂川林道が不通だからでしょうか。 北沢峠のバス停前にある北沢長衛荘です。現在は市営になっており、完全予約制で110人の定員を 守っており、おかげでゆったり寝られました。水の豊富なトイレはベスト1です。
 9日(金)仙丈    
     
 雨の日は雷鳥の動きが活発です。親子合わせて5〜6羽が逃げずにゆったりと餌を啄んでいます。雨の日はトンビなどの天敵が活動しないためなのでしょう。 朝の内に雨が上がると期待して登りましたが、少しも止まず雨が降り注ぎます。途中とても休む気にもならず森林限界で登り始めて2時間近く経ち、初めて休憩らしい 休憩を取りました。 時折強く降りますが、風が吹かないので助かります。吹きさらしの稜線で風が吹いたら即撤退です。仙丈のピークはさすが風が強まっていました。視界が悪いので早々と退散します。 
 10日(土)駒津峰    
     
 絶好の好天ですが、昨日の疲れで体が重く、仙水小屋で岳友に先に行ってもらいます。仙水峠への道は岩のゴロゴロした判りにくい道を辿ります。 駒津峰は全くの急登で、効率が良いと言えばそうですが、もう少し優しさが欲しい感じがします。ピークでは摩利支天を従えた甲斐駒の素晴らしい眺望が得られます。甲斐駒との標高差は200mです。 駒津峰の下りで甲斐駒をピストンした岳友と合流し、午後の臨時バスの時間に合わせて、ゆっくりと下山します。 
 山行中に出合った印象深い人たち
仙丈の下山途中、馬の背の分岐の下で井上圭子さんという百間洞山の家で働いている本物の山ガールと出会いました。休暇が終わってこれから百間洞の山小屋に入るそうですが、台風で南ア周辺の林道が全て寸断されてしまったため、尾根通しでないと百間洞山の家まで行けないため、これから仙丈を越えて仙塩尾根を縦走し、塩見、荒川、赤石岳を越えて小屋に入るそうです。こんなに無理して行っても小屋終いまで20日位しかないけれどと、また熊ノ平からは同じ経営の小屋(東海フォレストサービス)なのでこんなに荷は要らないのだけどと言って爽やかに笑っていました。見上げたすばらしい人でした。 北沢峠の往復に乗った伊奈市営バスの運転手の伊藤さんです。行の運転手さんも勉強家で、道中の高山植物や山野草や樹木を細かく解説してくれましたが、その話は決してなおざりな内容ではありませんでした。伊藤さんも更に熱心で植物だけでなく、林道からまじかに見える鋸岳を縦走し、風穴や足がすくむような急峻な熊の穴沢や角兵衛沢を先週踏破した話を控えめに解説してくれました。バスを降りて山好きなのかと尋ねましたら、登山には素人で、バスのお客様に実際に登って体験した話で喜んで貰おうと登ったと話しておられました。プロ意識のすばらしい人でした。




11年8月 谷川岳・朝日岳・白毛門縦走・上州武尊 

                                 
                                        笠原OB(40年卒)記

【時期】1188日〜11

【行程】 8日:横浜−水上−天神平−谷川岳−一ノ倉岳−茂倉岳避難小屋(泊)

    9日:茂倉岳避難小屋−蓬ヒュッテ−清水峠−朝日岳(幕営)

    10日:朝日岳−白毛門−土合橋−武尊橋−武尊神社−手小屋沢避難小屋(泊)

    11日:手小屋沢避難小屋−武尊山(沖武尊)−前武尊岳−川場野営場−下山

【メンバー】:笠原OB、前武尊でH氏と落合い下山

谷川岳馬蹄形縦走から上州武尊山へ継続したので報告します。7月の新潟・福島豪雨災害の影響などで林道や登山道の崩壊が発生し登山道も荒れていた。

88日(月)

横浜を朝出発し、普通列車で水上駅下車。バスは途中から乗車した団体が先に降り、順序そのままでロープウエイ乗車順が遅くなった。

   
 谷川岳トマ〜オキ
水3Lで天神平(標高1320m)から歩き出した(11:50)。日陰もあるが蒸し暑い。

 笠ヶ岳〜大烏帽子(朝日岳)〜白毛門
湯檜曽川を挟んで朝日岳山群が見える。明日の目標だ。

 
   

武尊山望遠
上州武尊山は頂稜の長い大きな山塊だ。明明後日の目標だが遠い。

 

 俎ー〜オジカ沢の頭
俎ー(1900m)は急峻だ。熊穴沢避難小屋先の露岩からは私にとって初の道。天神ざんげ岩で雷雨開始。いつのまにか登山者がいなくなった。肩ノ小屋で甘酒を頂きつつ情報収集(15:30)。トマの耳で雷雨。

   

オキの耳から奥社鳥居
底の摩滅した古靴が濡れた蛇紋岩で滑り余計な力が要る。オキの耳16時過ぎは遅い。雨霧で暗く、心細くなる。

一ノ倉沢雪渓
 霧が時々切れて一ノ倉沢雪渓が俯瞰できた。U字谷状地形が見える。対岸朝日岳に虹がくっきりと掛っていた。

   

 大源太山1598m
 一ノ倉岳支稜越しに大源太山の尖頭が見えたが霞んでいる。

光条
茂倉岳方面は雨か? 光条が射しこむ。

 
 

一ノ倉岳1974mから振返る

 振返ると一ノ倉沢へ落ちる斜面が凄まじい。一ノ倉岳山頂の避難小屋を覘いた。昭和38年の銘板が嵌め込まれ幾多の歴史が感じられた。暗い霧中を急ぎ日暮れの茂倉岳避難小屋着く(1834)と、先客U氏がいてほっとした。建物はしっかりして水場、トイレもあり快適だった。夜、土樽集落の灯りが見え、携帯メールが通じた。

 
 

89日(火

 

 
   

 茂倉岳北肩から茂倉避難小屋、万太郎山〜仙ノ倉山

 霧、雨ズボン着用。茂倉岳1978mで中芝新道へ下るU氏と別れた。茂倉岳北肩から振返ると笹原に茂倉避難小屋とトイレ棟がちんまりと見えた。背後の万太郎山の北面も険しい。

 

笹原の向こうに蓬ヒュッテ

 行く手笹原の向こうに蓬ヒュッテが見える。晴れていれば気持ち良さそうだが、背丈近い笹葉に濡れた。向こう左寄りに大源太山が尖っている。

   

 蓬ヒュッテ〜七ツ小屋山1674m
蓬峠を過ぎると蓬ヒュッテが見えてきた。

 

蓬ヒュッテ、背後は武能岳
蓬ヒュッテで宝川ルート不可(林道崩壊)を知らされた。玄関先から携帯メールが通じた。翌々日に会うH氏(アマチュア無線1級)によれば、昨日会った肩ノ小屋の主人も後輩で、かつて(携帯電話普及前)、ここと平標山ノ家との3箇所間でアマチュア無線の交信を続けていたそうだ。

   

七ツ小屋山から谷川岳〜一ノ倉岳〜茂倉岳
七ツ小屋山1675m1056着いたが笹の登降は続く。来し方を振返ると、一ノ倉岳〜茂倉岳〜武能岳が続いている。暑い。濡れた靴下を脱ぎたいが暇がない。

 七ツ小屋山から檜倉山〜大烏帽子山〜朝日岳
 前方、清水峠の向こうに、朝日岳の左(北方)へ大烏帽子山〜檜倉山と巻機山へ続く県境稜線が続いている。

   
 清水峠送電線巡視所三角屋根
清水峠の送電線鉄塔と送電線巡視所の三角屋根が近づいてきた。この辺りは遅くまで残雪に覆われていることだろう。越後と関東の昔の往還は厳しかっただろうと想った。

朝日岳稜線、池
朝日岳ジャンクションピークへの登りは長かった。日に照らされ、水を節約しつつも高齢者の熱中症予防に水を飲んだ。ジャンクションを過ぎると道は緩くなり、気持ちの良い草原が続いた。池も見える。

   

宝川への木道上ツエルト、左に水場、前方分岐点

 宝川への分岐のすぐ近くに水が音を立てて流れていた。木道の上での幕営は快適だった(夜雨)。アマチュア無線機でワッチしてみたが傍受できる電波は少なかった。

 

810日(水)

当初宝川下山を予定し渡渉用に地下足袋とPEロープを用意したが、白毛門の尾根道を下ることにした。 
   
 朝日岳1945mから大烏帽子1934m
朝は霧で見通し悪い。朝日岳(513)を過ぎ、近くにある祠の周りを一周するロスを生じた。笠ヶ岳への途中の大烏帽子、小烏帽子は、地図上では目立たないが、岩稜で時間がかかる。

小烏帽子手前から一ノ倉沢方面
笠ヶ岳への笹の稜線の向こうに一ノ倉沢の岸壁が朝の陽に輝いて見えてきた。朝陽の時間帯が良い。

 
   

笠ヶ岳南から一ノ倉沢
笠ヶ岳避難小屋を覘き、笠ヶ岳を過ぎたところで一ノ倉沢岸壁が真正面に見えてきた。絶景だ。

 白毛門から笠ヶ岳〜大烏帽子
白毛門1720m8:13。振返ると笠ヶ岳〜大烏帽子が見え朝日岳はその向こうに重なっている。 

   

白毛門下りから一ノ倉沢
白毛門を少し下りいよいよ真正面の一ノ倉沢を眺める。しかし、空気は水分多く清明でない。

 松ノ木沢の頭下の鎖場
白毛門からの下りは、急で鎖場や岩場が多い。東黒沢から川遊びの歓声が聞こえた。東黒沢に降りて肌着を洗い身体を拭いたら土合橋バス停は通過直後で約1時間ロスした。バスを大穴で湯ノ小屋方面に乗り継ぎ、武尊橋で降りた。そこからタクシーを呼んだがいつになるか不明の由。炎天下しばらく待って受けた連絡は、30分後の配車と。 タクシーは武尊神社までしか走れなかった(その先、林道崩壊)。

 

武尊神社、この先、車進入禁止(林道崩壊)

林道を歩き、水3Lに補給。道は荒れ歩幅落差大。手小屋沢避難小屋へ日暮れ直前に間に合った(1825)。小屋は湾曲波板を組み合わせて床板も一体的につないだおむすび型で、床も湾曲。夜中雷雨に波板を繋ぐボルト締穴から雨漏り多数。滴下受けつつシュラフカバーで就寝。

 
 

811日(木)

 
今日は、友人H氏と前武尊山頂で落合うことにしていた。彼は日航機墜落時の群馬県警の方で西穂〜奥穂の稜線で出合った。彼から1030分に登頂予定との連絡が入っていたので夜明け前に出発した。

 
   

手小屋沢避難小屋出発
水場も近く頑丈な作りで雨漏りを除けば快適だった。薄明の霧中へ雨ズボン着用で出発した(4:40

武尊山への鎖場
武尊山への登りは、鎖場や梯子が続き、荒れた足場に意外と手間取る。背丈を越す這松をかき分け、霧の武尊山(沖武尊2158m)に登頂した(7:30)。遅刻が見込まれ直ぐ出発した。

   

三つ池
剣ヶ峰山への道を別けて進むと、三つの池が直線状に連なった(地形図には表れない)窪地が続いた。笹清水は後背地が狭い頂稜近くにありながら「菩薩界の水」がパイプから流れ出ていた。貴重な水場だ。

川場剣ヶ峰を望む
中ノ岳2144mの南分岐を過ぎ、平坦な道が続くかと思ったら、岩稜の細かな上下が始まり捗らなくなった。家ノ串山2103mを越えると霧の向こうに川場剣ヶ峰が見え、100mの下りになった。

   

川場剣ヶ峰巻道
川場剣ヶ峰の北半分は右側を巻き、中間鞍部から左側へ転じて前武尊へ向かった。

前武尊山頂でH氏と再会
前武尊2040mに登頂した(10:50)。間もなく反対側からH氏が登って来て久しぶりの再会となった。かつて、日光白根山頂で落合ったときには約5時間も私が待たせてしまった。その間彼はアマチュア無線を運用し遠く四国や仙台とも交信できたそうだ。おしゃべりしながら川場野営場(1220m)へ下り彼の四駆で帰途についた。

 

(空想的仮説)

 谷川岳周辺の地形は氷河地形〜氷河周辺地形を当てはめると興味深い。

(1)氷河U字谷の可能性:@湯檜曽川河床の広さは氷河U字谷河床に似て見える。A或いは氷期の堆積層によるものか。B河床を挟む斜面は、U字谷斜面ほどは急ではないが氷期後の雨・雪による解析(浸食)でV字型になったとも思える。例えば、巡視小屋北の独標1048mと南の独標1068mを結ぶ線下の斜面や、西黒尾根の標高750950m付近の急こう配が氷期U字谷斜面の名残と想像した。

(2)一ノ倉岳東面の地形:急崖の形成を多雪気候だけでは受入れ難い。谷川岳南北主稜に蛇紋岩など硬くて浸食に強い岩質が分布し、隣接して東面に分布する石英閃緑岩が粗粒で相対的に浸食されやすいことと、これらの境界が主稜東の雪庇成長位置と重なることによって、岩質浸食抵抗差と気候的氷雪浸食にこの地域の隆起による下からの河川浸食などが相乗して急峻な崖斜面を形成したものと想った。

(参考文献抜粋)

1)オキの耳の東側の一ノ倉沢は雪渓の見える谷底までの標高差が約1000mある。西側(新潟県側)は、ササなどに覆われたなだらかな斜面になっている。冬の季節風で運ばれる多量の降雪が雪が吹き飛ばされて、風下の東側斜面に大量に積もる。一ノ倉沢では、雪崩で集められた雪の厚さが100mにも達することがあるそうだ。ぼう大な積雪や雪崩、雪解け水などによって、著しく削られて非対称山稜ができたと考えられる。(文献:野村哲編著(1998):日曜の地学D「群馬の自然をたずねて」41P.147149, 築地書館.)

2)谷川岳は北緯36.5度という低い緯度で、標高わずか1000mの場所に越年雪渓が残るのは、地球上で谷川岳だけなのだ。地球上の特異点といえる。天神平は浅いカール状の地形をしているし、似たような凹地は、清水峠や朝日岳の東面にも認められる。今も越年雪渓の残る一ノ倉沢、マチガ沢、それに俎嵒の下につらなる沢などには、氷期に氷河のあった可能性がある。一ノ倉沢のやや下流側には、厚い砂礫層からなる堆積段丘があって、浅間山から飛んできた約1万年前の火山灰をのせている。つまり、氷期にできた段丘なのだ。このような堆積段丘は谷川岳のまわりに広がっていて、氷期に谷川岳周辺の河川では、土砂が厚くたまったことがわかる。一ノ倉沢の堆積段丘は、大量の岩屑が、氷期に一ノ倉沢から出てきたことを物語る。衝立てスラブは灰白色の石英閃緑岩からなるが、隣の烏帽子スラブと並んで幅広い丸ノミで削ったようにえぐられている。〜〜滝沢の下部がほとんど隠れてみえないほど、厚い雪渓が残る年もあり、その厚さは50mにも達する(文献:小泉武栄+清水長正編(1992):山の自然学入門15P82,古今書院)。





11年7月 至仏・燧ケ岳・会津駒
                                                                       
                                                                       笠原OB(40年卒)記

【時期】1179日〜11

【行程】9日:高崎−鳩待峠−至仏山−鳩待峠−尾瀬ヶ原見晴(泊)

    10日:尾瀬ヶ原見晴−燧ヶ岳−御池−桧枝岐(泊)・・・広瀬・本橋は鳩待峠経由下山

    11日:桧枝岐−会津駒ヶ岳−桧枝岐−会津高源駅−横浜

【メンバー】:広瀬、本橋(36年卒)、笠原(40年卒)、各OB(敬称略)

 前夜、大分の広瀬は空路・新幹線を乗り継いで深夜の高崎入り。早朝列車で沼田。タクシー在り乗車。鳩待峠から登山開始。蒸す天気だった。

79日(土)

 
   
 尾瀬鳩待峠1591m 広瀬、本橋OB 
広々している。850分出発。日が照って蒸し暑い。
小至仏山2162mへの登り 
 樹林の道を登り、オヤマ沢田代を過ぎると残雪あり。この辺りから時々小雨。
   
至仏山への登り
団体さんや山ガールが行き交う。蛇紋岩が滑り易い。

広瀬,本橋,笠原OB
至仏山頂2228m到着(1230)。しばし横になってトカゲ。山ノ鼻へ下るルートは滑り易く下り禁止となっているので鳩待峠へ戻る。

 
   
 尾瀬ヶ原(山の鼻の東)
鳩待峠へ戻ると観光客も含め大賑わい(1500)。尾瀬ヶ原への木道を行き交う人も多かった。山の鼻1410mからの尾瀬ヶ原は霧が漂い、ついに雨。湿原は水びたし。木道で渡る流れは水量増。

尾瀬ヶ原見晴、今日の宿
尾瀬ヶ原東端の下田代十字路(見晴)弥四郎小屋に着いた(1748)。背後は燧ヶ岳。宿の風呂は良い眺めだったが夕食に間に合わせるためゆっくりできず惜しかった。石鹸使用不可で環境保持に配慮されていた。

 
 

710日(日)

 
   
 弥四郎小屋 広瀬、本橋、笠原OB
朝食前の記念撮影。家族連れや子供たちも多い。

弥四郎小屋の朝食
夕食も朝食も美味しく、御代りした。

 
   
 弥四郎小屋前から至仏山
宿の前から尾瀬ヶ原と至仏山をバックに別れの記念撮影。

見晴新道上部から尾瀬ヶ原、至仏山
標高2100m辺りで樹林を抜け、振返ると尾瀬ヶ原が見えてきた。尾瀬ヶ原の奥行き約7kmは広い。昨日歩いた道が見える。長かった。

 
   

燧ヶ岳(芝安ー)から尾瀬沼
急登を終え、燧ヶ岳(芝安ー)2356mに着いた(1040)。俎ー鞍部への下りは残雪あり。俎ー2346mに着く(1115)とルートが合わさり登山者が集まってきた。一時雷鳴と雨。

広沢田代
俎ーから御池への路は変化に富んでいた。崩壊斜面を横切り、雪渓を直降し、歩きにくい岩礫帯など高差約400m下って熊沢田代に至った。ゆったりと気持ちのよい草原だが時間余裕がない。濡れて滑り易く歩幅が上下飛ぶ道をさらに下って広沢田代。一昨日来の濡れ足が蒸れる。木道上の休憩スペースでしばし休憩。

 
 

尾瀬御池1500m
俎ーから高度差約850mを下って御池に着いた(1410)。車多数駐車しツアー客などで賑わっていた。売店には気の効いた登山用品も販売されていた。 桧枝岐への路線バスは乗客で満ちていた。駒ノ湯に寄り、靴や靴下、雨具などを外に干しながら入浴したが、短時間では乾かなかった。国道352号を歩き、会津駒ヶ岳への林道に入り幕営地を探した。広がった路肩にペグを打ったが固くて受け付けず、断念し夕暮れの林道を戻った。分岐に民宿(すぎのや)が在ったので女将さんに頼んで素泊まりした。

 
 

711日(月)

 
   

駒ヶ岳林道分岐930m
民宿の玄関土間で自炊した。写真は玄関前国道ごしに林道方向を写したもので、登山口看板と公衆便所が見える。

会津駒ヶ岳登山口(林道終点)
林道分岐930mから登山道を30分登って登山口1100mに着いた(5:35)。自家用車が駐車している。木の階段が整備されていたがすぐ登山道になりぐんぐん高度を稼ぐ路になった。林内だが蒸し暑い。

 
   
 会津駒ヶ岳、左上に駒ノ小屋
途中の水場分岐1670m7:23)を過ぎ、標高1900m辺りから大戸沢岳に連なる稜線が見えてきた。さらに登り、樹林がまばらになる辺りから駒ノ小屋が見えた。頂稜部はなだらかに残雪を擁し素晴らしい眺めだ。ここから駒ノ小屋まではまだ30分を要した。

駒ノ小屋と会津駒ヶ岳
7月になって残雪も融け細っているが、辺り一面に笹原が続くのは、多量の雪に抑えられるためと思った。日差しは強い。汗を多量かきながら雪解け水を飲んだ。

 
   

駒ノ小屋2050m
駒ノ小屋に着いた(9:25)。思っていたより立派な小屋だ。周りの景色も気持ちが良く夏の陽が燦々と降り注いでいた。小屋中には石油ランプが吊るされ、壁には熊の大きな皮が貼られていて、昔ながらの風情があった。

駒ノ小屋前から会津駒ヶ岳2133m
駒ノ小屋の前から雪上を歩き、左側から廻り込んで、木製の階段をのぼって行く。

 
   
会津駒ヶ岳から燧ヶ岳
会津駒ヶ岳に10時登頂した。累々とした山々に囲まれ日本有数の深山と感じた。その中で燧ヶ岳が特徴的な頭をもたげ昨日の雪渓も見えた。日光白根山もひと際高い。新潟県境の山々は残雪が多く見える。

会津駒ヶ岳入口、民宿すぎのや
下山で渇きを感じたが、出発時の1Lでは余裕がなかった。すぎのやに戻り水を飲んだ。
駒ノ湯の入湯券を貰い入浴した。

   会津高源駅
 桧枝岐からバスで会津高源駅へ着くと浅草への直通電車があった。特急をやめてそれにした。会津は遠いと想っていたが、会津高源駅から野岩鉄道〜鬼怒川線〜東武日光線を乗換なしで浅草に至ることができ、その日のうちに帰宅できた。

(付記)

至仏山2228m
至仏山は、谷川岳から只見川上流域にかけて分布する谷川岳帯の花コウ岩に貫入した至仏山超塩基性岩体からなる。至仏山は1億7000万年前の古い蛇紋岩からなるのに、燧ケ岳はわずか1,2万年前の安山岩だ。蛇紋岩はすべすべして硬いので、侵食からとり残されて突出し、非火山では東北日本の最高峰だ。 表土が流れてしまうので森林限界も低くなり、ハイマツ群落が岩塊斜面を覆って分布し、1659m付近(通常より800m低い)まで低下している。

燧ケ岳2356m
燧ケ岳は、古生層や花コウ岩類を基礎とし、北〜西側は只見川上流の新期花こう岩が、北東側は檜枝岐の二畳紀高倉山層群が分布する。それら上に第四紀以降噴出した安山岩質溶岩がのった山だ。山頂部に径約800mの火口があり、火口壁に柴安ー、俎ーミノブサ岳、赤ナクレ岳が並ぶ。中央に溶岩円頂丘の御池岳があり、噴気孔の凹地に湛水下池がある。山容は急峻だが山腹、山麓の緩斜面には豊富な残雪の影響で田代とよばれる湿原が散在している。

会津駒ガ岳2133m
会津駒ガ岳は古生層の粘板岩などから成る。山頂付近の広い緩斜面はかつての侵食平坦面の名残で、第四紀初期の越後山脈の隆起運動によって現在の高度となり、その後、只見川水系に激しく開析されて、急斜面の壮年山地となった。





11年6月中旬 西吾妻 
ロープウエイの終点天元台から3本のリフトを乗り継いで、かもしか展望台までひと登りして木道を辿ると西吾妻が初めて全貌を表します。中央の尖った岩が梵天岩で、そこまで登ればピークは直ぐです。 

  
       【期日】 11年6月17日、18日
       【行程】 17日:東京ー米沢ー白布温泉(泊)
             18日;白布温泉ー天元台ー西吾妻往復ー天元台ー白布温泉ー米沢ー東京
       【メンバー】 41年同期:稲吉、斉藤(雄)、杉村、金子、各OB
       この西吾妻山行は4月上旬に計画していましたが大震災のため中止にした経緯があります。今回の山行は4月に
       計画していたプランをそのまま実行しました。西吾妻は天元台までロープウエイ、そして3本のリフトを乗り継いで
       終点から2時間半位で登れます。メンバー全員は全く久しぶりの山行のため、足慣らしにはちょうど良く、米沢神社、
       上杉博物館、名湯白布温泉、そして梅雨の山とニ日間、盛りだくさんな山行でした。
 
 
 上杉神社です。米沢城の本丸跡地に建つ清潔な神社です。残念ながら神社の宝物館である稽照殿が震災の影響で休館でした。  米沢市上杉博物館です。ここには信長が謙信に贈った狩野永徳筆と言われる国宝上杉本洛中洛外図があります。
   
 白布温泉は天元台の麓にある名湯です。20代の時スキーで3回訪れました。その内1回は杉村OBと一緒でした。 白布温泉は開湯700年の古い温泉で、宿の東屋は上杉家の別荘に使われ、鷹山が使った温泉は今でも同じ形で使われています。 
   
 昔スキーで訪れた時は、天元台ー白布温泉は山形国体の滑降コースになり、ロープウエイが新設されました。何回もペンキを塗り重ねて維持をしている小さな懐かしいゴンドラです。  ロープウエイ終点から西吾妻に向かって3本のリフトがかかっており、それを乗り継ぎます。特に最後のリフトは15分と長く、下山中雨に遭い、雨ズボンを付けなかったため濡れた身に、激しい雨は容赦なく襲い掛かり全く戦意を喪失してしまいました。
   
 ロープウエイ終点から残雪豊富な飯豊山が望まれました。以降雲で見ることは出来ませんでした。 リフト終点から、オオシラビソの樹林の中の道をひと登りすると、かもしか展望台に出て木道を辿り、人形石への分岐から大凹と呼ばれる広い鞍部にでます。
   
 広い鞍部には、大きな雪田が残っており、水は豊富です。  シーズンには花畑が広がるだろうと思われる木道を進みます。
   
 やがて樹林に入り登山道に残雪が現れます。  樹林帯を抜けると大きな雪渓が横たわっています。
   
 頭上には大きな岩の塊の梵天岩がのしかかって来ます。  梵天岩の裏側は画像のように広い岩野原です。安達太良が望まれます。
   
 梵天岩から進むと天狗岩と言われる場所に着き、大きな西吾妻神社の祠があります。祠は辺りを見渡す場にあり、ここが事実上西吾妻のピークではないかと想います。 天狗岩を下り木道を辿ると西吾妻避難小屋があります。気持ちの良い場所です。 
   
 西吾妻のピークはオオシラビソの樹林で眺望が全くありません。積雪期は気持ちの良い場所と想いますが。 梵天岩の下りで、団体登山のパーティをのんびり待ちます。全くプレッシャーの無い良い山です。 
   
 大きな雪渓を下り遅い昼食です。雲行きが怪しくなってきました。  下山中小雨が、とうとう本降りになりました。雨具を着用します。




11年5月中旬 深川界隈散歩 
先月の浅草界隈散歩に続いて、秋野、稲吉、小島、斉藤、杉村、宮尾、金子OBの41年同期は連れ立って、初夏の風が薫る深川界隈を散歩しました。 
 
深川を象徴する富岡八幡宮と、隣接しては深川不動があります。門前仲町は両社の門前町です。  江戸期から続く旧中川と墨田川を結ぶ運河の小名木川です。
   
 最初に区立深川江戸資料館を見学します。 横十間川親水公園にて 週に1度江戸和船友の会が運営する和船を体験します。 16時開店の飲み屋魚三には 15時半ごろから長蛇の列が並びます。新鮮な魚貝類の量と安さで人気です。
東映映画 早稲田大学の鑑賞

映画の本なら直ぐ書ける、尋常でない映画好きの小島OBの誘いで稲吉OBと共に、5月下旬のある日、国立近代美術館の京橋フィルムセンターに東映映画「早稲田大学」 を観に行きました。
1953年制作の尾崎士郎原作、佐伯清監督の東映映画ですが、我々はもとより小島OBもその存在は知りませんでした。
前半は大隈候を中心とした早稲田の歴史、後半は佐野周二と船橋元が2代に渡って早稲田の親子を演じ、明治から戦後の日本の歴史に沿いながら、早稲田を舞台として時代の波を受けながらひたむきに生きた学生たちの生きざまを描いた映画でした。安倍球場や甘泉園など今は無き懐かしい場所が登場しました。
フィルムセンターには150人程のもの好きな人々が鑑賞していましたが、映画が終わると皆、拍手で讃えました。
OBの方々、機会がございましたらご覧ください。

ネットを検索したら、さすがアマゾンで販売していました。
11年4月初旬 浅草界隈散歩
東日本大震災の心痛む報道が連日に渡って続く日々、とても雪山に行く気にもならないため、病気でしばらく会えなかった小田兄を交えて秋野、稲吉、小島、斉藤、杉村、宮尾、金子0Bの41年卒同期8名で浅草界隈を散歩しました。
 
雷門前で集合し仲見世を歩くと、通りは多くの参拝客でごったがえし驚きました。  スカイツリーはビックな名所になるでしょう。
   
境内で小田兄持参の言問団子と長命寺の桜餅を頂きます。電気ブランの神谷バーの提灯も掛っています。 駒形どぜうで遅い昼食を採り、駒形橋を渡ってスカイツリーを目指します。  スカイツリーの直下ではこのように見上げないと先が見られません。この後人形町界隈の飲み屋に場所を移し、震災後の日本人の生き方について語り合いました。 




11年GW 大峯奥駈道登山
         11年GWに5泊6日で大峯奥駈道を踏破した紀行です。笠原OBの寄稿です。

大峰山脈の「南奥駈道」を越え釈迦ヶ岳を登頂したので報告します。

メンバー:打矢OB(37年卒)、笠原OB(40年卒)
期間:2011429日(金)〜54日(水)
行程: 熊野本宮大社−玉置山−笠捨山−涅槃岳−地蔵岳−天狗山−釈迦ヶ岳−十津川へ下山

    概要

 当初の目標は大峰山脈最高峰の八経ヶ岳だったが、全行程歩きたいどうせやるなら「山伏の代表宗派聖護院が主宰する順峯(じゅんぷ)をフルコースで、熊野本宮から吉野まで縦走したい」となった。しかし日程が7日しかとれず、アプローチの1日を除く6日で、全コースタイム3000分(エリアマップ)を割り振ったが、泊可能地を考慮すると初日が615分になるので前日に荷上を行った。

比較的容易とされる逆峯(ぎゃくふ)でさえ標準7泊8日とされるコースを、まだ一部雪の残る時期に高齢者が6日で通過するのは元々無理な計画で、負荷1日目(5/1)で既にコースタイムの1.9倍を要した。「南奥駈道」を踏破したが、直前に打矢OBに日程延長不可の事情が生じたので釈迦ヶ岳(1800m)で中断し急ぎ下山した。


(1)4/29(金)

GW前夜高速道路の渋滞著しく天理駅前へ3時間余延着した。JRに乗継ぎ、五条からの路線バスに間に合わなかったのでタクシーで168号線を南下。十津川沿いを走り、玉置神社の駐車場にタクシーを待たせて玉置神社まで荷上げした。

玉置神社いわれ杉

玉置神社は、第10代崇神天皇の創建(BC.33年)と伝えられ熊野三山の奥の院として格別の由緒があり、大峯奥駈道の靡(なびき=行所)のひとつである。2004ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産・大峯奥駈道の一部として登録された。境内には樹齢2000年という杉が多数保護されている。玉置山(1078m)には枕状溶岩が分布している。枕状溶岩は地質時代南洋の海底で噴火した玄武岩質の溶岩が水中で枕状に固化し、海洋プレート上に乗って長い時間かけて運ばれてきたものだ。岩の形(玉状)が玉置神社や玉石社名の由来となっている。駐車場へ戻りタクシーを十津川温泉まで乗った(3万円余)。1時間以上待ち合わせ後路線バスに乗り、本宮大社前で下車した。

バス停前に投宿した。打矢OBが福島県南相馬市と米国オレゴン州ペンドルトン市との間を乗馬でむすんで姉妹都市としてつないだ親善大使を務める関係で東日本大震災へのペン市からの支援があって、NHK米国が取材に動いている背景があり、宿に着くやPCを借りてメールチェックを始めた。その間に私は本宮大社を詣でた。



(2)4/30(土)晴後曇り設営時から雨

熊野本宮大社入口 標高59m(第1靡)

和歌山県の本宮大社から出発する。ここは吉野川まで75ある靡(なびき)の中の第1靡。靡とはこの修験道で最も重視される行場のことをいう。登山初日は、七越峰→吹越山→大黒天神岳→五大尊岳→大森山→玉置山と、登降を地図上で累積すると登り1,710m、下り820m(実際は細かな上下も加わる)で長いので出発を早暁にしたかったが、入山前の外国出張や夜行バスの疲れがあり早立ちを嫌って6時になった。

 
   
   

奥駈道起点熊野川堤(標高50m

本来の奥駈けは熊野本宮旧社地「大斎原」から熊野川を渡渉して始めるが、備崎橋を渡って渡渉点コンクリート堤斜面に刻まれた階段上の大峯奥駈道標から登行開始した。七越峰への登りが始まる。

 

   
 

奥駈道登行開始

奥駈道は修験道の道。地形に沿って直登。山波の上を縦に進むだけでなく横に隣りの山波へ乗り移ることもあり登降が多い。初めのピーク七越峰(標高202m)は自動車道も上がってくる景勝地。その先4靡の吹越山を越す。靡の順序として、2靡は那智山(熊野那智大社)、第3靡は新宮(熊野速玉大社)。当初それら熊野三山も計画に含めたが、GWの混雑で新宮行予約が取れず二山省略。大黒天神岳(578.6m5靡)、金剛多和(450m6靡)を越えて行く。

 

 
   
 

奥駈道五大尊岳825m(第7靡)

 当山派の新しい石碑がある。 修験道の世界では、本山派(京都の聖護院)、当山派(京都の醍醐寺)及び大峯山(金峯山寺)がある。この三山は過去に確執もあったが、これまでの経緯を乗り越え、役行者千三百年大遠忌を期して、三山の大同団結がなったそうだ(平成12年4月号の金峯山時報「蔵王清風」欄)。

 
   
 

奥駈道玉置辻710m

8靡「岸の宿」から奈良県に入り大森山1078mの長い尾根を越えて、長い降りの後、玉置辻(本宮辻)に着くと林道が交差していた。ここから玉置神社への登りになる。

 
   
 

玉置神社960m地点

 長いピッチの後、由緒ある玉置神社に至った。梵鐘は1959年に国の重要文化財指定。社務所及び台所 1988年に国の重要文化財指定。昨秋、社務所内部を見学したときには、杉一枚板の板戸及び板壁60枚余で仕切られた襖に幕末の狩野派の筆による豪華な花鳥図等を拝観した。

 

 
   
 

玉置神社965m

玉置神社で昨年Y神職にお世話になったことなどを話す。神社の皆さんは親切でお神酒も頂いた。預けたザックを回収し水を2人で6.5L補充するとズシリと来た。日暮れが迫り先を急いだ。宝冠の森を分ける巻き道を採ったが距離は長かった。

 
   
 

世界遺産大峯奥駈道の標

玉置山1078m(第10靡)の横を通って、巻き道と尾根道の合する所に世界遺産の石標があった。ここから自動車道を急いだ。

 
   
 

玉置山北展望台960m

玉置山展望台(950m)へ着くとアマチュア無線家がアンテナを建て自家発電機持込みの夜間運用準備をしていた。風が強い。風の弱まる路肩を探し設営を始めると日が暮れた。別行動になってもよいようにとツエルトを各自持参にしたが、打矢OBが張り方を忘れていたので風雨暗中の2張りに時間を要し遅い炊事・就寝となった。

 

(3)51(日)曇り後雨

遅起きし計画外の魔法瓶用湯沸かしを追加してからの支度で出発は6時を過ぎてしまった。

 

奥駈道如意珠岳736m (第11靡)

 お札が添えられていた。ここまで林道が並走していたが奥駈道は細かな上下を繰り返した。林道はこの下を葛川隧道で貫通する国道425号に繋がり、トンネル入り口に駐車が見えた。貝吹金剛(910m)などキャンプ適地はあるが水は無い。細かなアップダウンが続いた。「登りは体力下りは技術」と言われるが、登りになるととたんに荷重に抑えられてペースが落ちる。体力不足だ。

 
   

 奥駈道香精山1122m (第13靡)

主治医から肺組織に線維化所見ありと言われていた。呼吸数が増える。先を急ぎつつも脈拍120/秒以下にペースを抑えた。東屋岳1230m(第16靡)では急坂を直登したと思ったら、水平角30度で戻るような方向に直降した。普通の登山道ではこんなルートの付け方をしないと思った。

 
   
 

奥駈道地蔵岳1250m鎖場

垂直に近い鎖場だ。吊り上げ用の新しい鎖が掛けてあったので、打矢OBにザックを吊り上げてもらった。旧路が崩壊して現ルートになり、事故が発生して遺族からの費用負担でここの前後も含めて新しいステンレスの鎖が取り付けられたそうだ。鎖場はこの先の槍ヶ岳(第17靡)まで続く。笠捨山手前の鞍部「葛川辻(1140m)」に水場まで10分という新しい標識があった。泊地にしたかったが、計画通り笠捨山を越えることにした。暗雲に日暮れ迫り、脚重く歩幅を靴長半分で登る200mは高かった。

 
   
   

奥駈道笠捨山 1352m (第18靡)

頂きで日暮れた。2つの峰といくつかのコブを越えヘッドライトを霧中に照らし、濡れた落葉で覆われた踏み跡を探りながら進んだ。「行仙宿まで500m」の道標からが長く感じられた。疲労も限界と感じたとき微かな明りが見えた。御堂だった。開けると行仙宿の主(80歳代)がお経を上げるところだった。「貴方がたの分もお参りするからそこに居なさい」と言われ、ザックを腰に載せ、般若心経を聴いた。隣りの行仙宿山小屋へ入ったのは19時半を過ぎ、他の登山者は殆ど就寝。音たてぬよう応急的な夕食を作り荷物整理もそこそこに就寝した。

 

 
 

(4)52(月)

前日のオーバーワークで行仙小屋(1090m)の出発を遅らせた。深仙宿までコースタイム580分(エリアマップ)は、無理として、途中の地蔵岳(子守山1464m)を越えた鞍部(嫁越峠)を希望的目標とした。

 

奥駈道 平治の宿 1130m(第21靡)昼寝

小屋で予告を受けていた美女3人パーティと倶利伽羅岳(1252m)で会ってしばし歓談。同世代に見えたが、一昨年槍ヶ岳の北鎌尾根を登った話や、普段岩トレを遣っているなど、極めて元気溌剌だった。我らはまだ進捗せずへとへとの態で平治の宿へ着いた。睡魔が忍び寄りしばしの昼寝。

 

 
   
 

持経の宿お堂 1050m(第22靡)

林道が交差し持経の宿山小屋があった。管理人は極めて親切で、水を汲んで来てあった。林道をマウンテンバイクの青年が通り過ぎた。嫁越峠までまだ5峰あるが水場は無い。今日は1峰さえ堪える、翌日の泊り場も含めて検討した。打矢OBは私の判断を聴かないので管理人に説明してもらった。丁寧な説明(私と内容同じ)を受けて了解した。弥山より先は端折ることにして持経に投宿することにした。荷を軽くするため食料900gを小屋に寄付した。隣りのお堂の方が静かなので、了承を得てお堂で自炊・就寝した。打矢OBは不動尊が気になり夜中に小屋へ移動した。

 

 
 
 

(5)53(火)晴後曇り設営時雨

  奥駈道 持経の宿 朝 

3時に起床し打矢OBを待った。小屋へ何回か見に行ったが静かなので遠慮し早立ち出来ず。

   
 

涅槃岳 1376m(第24靡)

「涅槃」とは、安らぎを感じる言葉だ。この辺りから緩やかで広い尾根が続き、葉が茂っていない疎林の下は絨毯のような滑らかさだ。じっとしていたら涅槃寂静の境地に入れるような静けさだった。この辺りから釈迦ヶ岳が見えてきた。鞍部笹の宿跡(1200m)から登り、静かな安らぎの尾根が続く。

 
   
 

般若岳 1330m(第25靡)

「般若」とは、修行の結果として得られた「さとりの智慧」をいい、知識を克服してそれを実践智に深め、ものの真相に体達することだそうだ。地蔵岳(子守岳1464m26靡)を越えた鞍部(嫁越峠1350m)という前日の希望的目標は昼の通過になった。奥森岳(1480m)を越え天狗山(1537m)に至ると、釈迦ヶ岳も近づき、辺りの植生も徐々に高さを感じるようになった。

 

 
   
 

大日岳  1568m(第35靡)

 蘇莫岳1521m(第32靡)の岩峰を巻くと大日岳の岩峰がせり上がってきた。ここで、第27靡(奥森岳)から靡の番号が飛んでいるのは、縦走路から外れた前鬼周辺に修行場が移ることによる。地形図を見ると、天狗岳から釈迦ヶ岳〜孔雀岳にかけての東側の斜面が急傾斜をなし、前鬼川の浸食が険しい地形を成していることと、前鬼の緩斜面(崩壊物の堆積斜面に見える)が休息の場を提供(?)することが多数の靡に関連すると思った。大日岳は丸っこいが険しい斜面で囲まれている。マグマが地下深く冷えて固まった花崗岩質の深成岩のようだ。

 

 
 
                            太古の辻(前鬼分岐) 1450m

太古の辻で前鬼からの道が合わさり、それまでの踏み跡道からはっきりした登山道になった。南奥駈道が終了し北奥駈道へ移るのだ。この辺りの斜面の傾斜が東西で非対称になっているのは、日本有数の雨量が南東から吹き付けることが前鬼川流域の浸食を卓越させ、前鬼川が北山川に合流する地点(標高220m?)の低さから標高1800mの釈迦ヶ岳へ短い距離で突き上げる急傾斜を形成する要因になったと思った。大日岳を巻いて深仙宿へ。

   

深仙宿の香精水

 深仙宿山小屋の水場で岩から滴下する水がコッフェルに貯まる間待って、水を補給した。団体の場合は水貯めに時間がかかるだろう。

   
   

深仙宿山小屋 1500m(第38靡)

釈迦ヶ岳西の千丈平水場へいくつもりが、分岐を見出せぬまま釈迦ヶ岳の肩で千丈平への分岐が現れた。私は水場探しに西へ駈け下った。水場と残雪があった。幕営用平地も整地されていた。しかし、分岐から高度計で70m下ったことと、山頂近くにも平地があるとの情報を得ていたので、千丈平はやめて分岐へ登り返した。急ぎ登りの10分は疲れた。

肩へ登り、笹上の設営となった。日暮れ雨降る。打矢は焚火をしたいと冷えを訴えていた。後で私のツエルトに逃げこんで来た。肌着を濡らしていたことが分り替衣類を提供した。スペースをやりくりしたが地面凹部にはまり、腰部の出っ張りに突きあげられ寝苦しい体勢になった。この先の行程を見直し、日程延長不可の事情が無視できなくなったので下山することにした。

 
 

(6)54(水)晴(黄砂で霞む)

   

釈迦ヶ岳 1800m(第40靡) 

泊地(気温2℃)から高さ20mほどに山頂があった。1三角点設置の日本200名山で、この一帯は世界遺産の構成要素として登録されている。大きな釈迦如来銅像が安置されているが、1924年に岡田雅行(身長188cm 体重約120kg)という強力が、たった一人で道をつくりながら、3分割して担ぎ上げたのだそうだ。銅像の台石に立って携帯を高く掲げたらメール交信ができた。

 

   
 

釈迦ヶ岳から北方

写真の右手前仏性ヶ岳1805m、から遠方へ、楊枝の森1633m(左へ七面山1624mが派生)を中景に、一旦右へ下りて左へ明星ヶ岳1894mに上がり、右へ最高峰八経ヶ岳1915mが突きだし、弥山1895mへと台地状の輪郭を成して見える。八経ヶ岳には雪が見える。行けそうだが、弥山から天川村へエスケープしても日程が厳しいので、残念ながら引き返すことにした。

 
 
                           釈迦ヶ岳から南方

 南方を振返ると、来し方が山並みとなって続いている。紀伊半島は広い。十津川村も広さで日本一。

 

釈迦ヶ岳の肩 幕営地

昨日は近くに鹿が沢山いた。下山にかかると肩の分岐で、腰に鉈を下げて登って来る青年に会った。熊野本宮近くで森の仕事をしているそうだ。釈迦ヶ岳をピストンして下山するというので便乗を頼んだ。

 
   
 

釈迦ヶ岳西の千丈平

昨日偵察した水場は写真より上だが、管から水が流れていた。周囲に残雪があった。

 

 
   
 

釈迦ヶ岳西南尾根下り

尾根は広くなだらかな笹原で気持ちが良い。今日は休日上天気。次々とハイカーが登って来た。友達同士、親子連れ、若いカップルと、軽装で楽しそうだ。バスは来ないが自家用車で入ってくる。
下山の登山口近くでは猟銃の音が聞こえた。鹿一頭につき8,000円の報奨金がでるそうだ。さっきの青年が追いついてきた。軽自動車に荷を詰め込んで便乗することができた。歩けば延々を助かった。十津川の旭口バス停で別れた。路線バスもあまり待たずに接続出来た。このバス路線は日本一長い。大和八木駅〜十津川温泉〜熊野〜新宮駅を約6時間30分かけて運行する。乗車3時間の後、八木駅から近鉄特急で名古屋へ出て、新幹線に乗り継いでそのまま帰宅することが出来た。通常下山に2日はかかる交通不便な深山から上手く便乗できて効率的に下山出来た。


 

(付記)

 千丈平への道を見出せなかったが、下山後調べたネット地形図では深仙宿権頂堂横からついていた。しかし、現地でお堂横を偵察したとき「この先入れません」の標示があり追求しなかった。持経の宿で見せてもらったエリアマップ最新版には釈迦ヶ岳への途中から分岐して見えたのだが、読み間違いだったのか?

                                        (完)

 




11年5月上旬 安達太良山

           
           3
月の積雪期から5月の安達太良山
         井村OBの寄稿です。

昨年から斉藤洋OBのアイディアで東北の山に登ろうと参集した松村OB, 田野辺OB, 井村の四人組が早池峰山、栗駒山、安達太良山と麓の温泉、東北の銘酒を楽しんできた。今まで、慣れ親しんできた北ア等の山々と少々勝手が違うなあ・・と言いながら。

その中でも安達太良山中の「くろがね小屋」の白濁の温泉はなかなかで、登山のあとにどっぷりと温泉につかるのは、至福のひと時でした。松村先輩も大分気に入った様子で、一度、雪の安達太良を登り、雪まみれの後に、この白濁の温泉につかりたいね。と、冬の天気図を眺めながら、今年34日に松村OBと井村が「あだたらゴンドラ」終点から降雪の中を登り始めたが、如何せん、膝上のラッセルで、2人でラッセルを交代しながら、約3時間、更にアイゼンに履き替えて稜線付近まで達したが、上部は飯豊連峰を越してくる風雪も強く、視界も悪いので、そこで諦めた。

その後も3月下旬か4月上旬に再度登りたいとチャンスを伺っていたが、地震で「あだたらゴンドラが休止」とか「くろがね小屋も休業」となり、5月連休にしかチャンスがなくなってしまいました。ちょっと後ろめたい気持ちもあったが、兎も角も「がんばろう東北」と勝手に納得して東京を発った。今回は新たに強力メンバーの田野辺OBが加わり、52日から同じルートでの挑戦となった。心配していた二本松辺りは特別に地震の被害を目にすることもなく、翌日ゴンドラ終点から登り始める。3月と違い雪面にトレースもあり、天候にも恵まれ、夏時間とさして変わらず、安達太良のピークに立つことが出来た。ピーク付近は積雪期に風の強い場所で、既に雪が一部融けていた。また雪面は黄砂の影響で大分黄ばんでいる。ピークから視界にも恵まれ、すぐ近くに磐梯山、その向こうに未だ真っ白い飯豊連峰が魅力的に輝いていた。


 安達太良山から会津磐梯山を望む
 
 
 安達太良ピークへの雪の斜面 井村OB
 
 
安達太良山ピークでの記念写真 
 
 
 

ピークからは牛の背尾根廻りで、くろがね小屋に向かって、快適な雪面を駆け下りる。

雪の斜面でグリセードの真似事で遊びながら、峯の辻を越して、くろがね小屋に駆け込み、そうそうに山小屋の温泉に飛び込んだ。その後のビールの美味さは言うまでもなかった。しかし連休中ながら小屋は3割か4割の入りとのこと。


 
 峰の辻辺りから安達太良ピークを望む
 
 
 峰の辻にて田野辺OBと井村OB  
 
 
 今尚精悍な松村OB
 

翌朝、右手に安達太良を望みながら、まだ雪の残る勢至平をトラバースして、「あだたらゴンドラ」のある奥岳に戻った。山裾への雪道は未だ雪を被りながらも「ネコヤナギ」が芽吹いた春でした。


 
 峰の辻からくろがね小屋への雪の斜面 
 
 
 くろがね小屋からの下山道、勢至平辺りにて